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エミール・ヴュイエルモーズ『ガブリエル・フォーレ』

ガブリエル・フォーレ―人と作品ガブリエル・フォーレ―人と作品
(1981/06)
エミール・ヴュイエルモーズ、家里和夫 他

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ガブリエル・フォーレ(1845-1924)の人とその音楽作品について、フォーレの弟子であった人物が記した本。師であるフォーレに対する深い愛情が随所に現れている、温かい気持ちのこもった本だ。同時に、フォーレがあまり評価されていない現状に対して残念な思いを随所に記している。例えば次のように。
厳格で融通の利かぬ、単に学者ぶった教師たちは彼を毛嫌いし、彼がもったいぶった教条主義をふりかざすことをしなかったために、素晴らしい作曲の教授であると認めることができなかった。フォーレは規範や、慣習、そして束縛を嫌い、またいつもにこやかで機嫌がよく、純真で、学者ぶった頑迷さが全くなかったが、そのことが、弟子たちに確実で、明晰な、最も素晴らしい教育を与える妨げには少しもならなかった。(p.41)

そのせいか、少し持ち上げ過ぎだなと思うところもある。例えば、ベルリオーズと対比して、ベルリオーズの管弦楽曲は貧素なのでピアノ曲にすることができないが、フォーレの作品はどんな曲でもピアノにしても音楽的価値を失わない(p.88)と書いている。それはフォーレの作品がピアノを基調にしているからでベルリオーズはそうでないことに過ぎないだろう。ラヴェルがフォーレの作品はどれもオーケストラにできるものがないと述べたそうだが、オーケストラにするとそれこそ音楽的価値が失われてしまうのだろう。

叙述の流れとしてはとてもシンプルなもの。まずフォーレの生涯について述べる。祖先から受け継いだという辛抱強く頑固な性格(p.21)、教会のオルガニストになったのは生活のためであって信仰のためではないという記述(p.23)が目に留まる。ついで、作品について述べる。取り上げる作品の順序はジャンル別を基にしつつ、年代別を織り交ぜながら、声楽曲、ピアノ曲、宗教曲、室内楽曲、歌劇曲を述べていく。これは、フォーレでは晩年でも若いときの要素が現れてくるので、時代で発展区分を分けるような試みができないという考え(p.93-97, 110)によっている。その中では、フォーレでは自分の苦悩が音楽に反映せず、その音楽は純粋に内的論理に基づいているという話(p.29, 112)が印象的。ベートーベンやベルリオーズとは違って、個人的苦悩が音楽に出ることはなかったと。音楽家の中にはフォーレの個人的苦悩を作品に読み込もうとする人たちもいるが、著者はそれを戒めている。

楽曲の話それぞれは曲をよく知っていないとポイントは分かりにくい。ピアノ四重奏曲第二番の第四楽章についての記述が一番気に入った。ここは清々しいフレーズが現れては消えていき、時に息をのむような情景が急に広がったりしながらフィナーレへ向かっていく楽章。
剽悍な足跡を印する駿馬のようにいつも大胆で神経質な最後のアレグロでは、逆説的とも言える贅沢を尽くして、それぞれの主題に導火線を仕掛け、速やかにその足跡を焼き払う。彼は半ダース以上の楽想を無造作にその背後にばらまき、その気まぐれな気分のままにあるものは一回きりで棄て去り、あるものは再び取り上げる。そのあるものは貴族的で、他のものはいたずらっぽく、三番目は感動的で、また別のものは横暴といった具合である。そして騒々しいコーダでは、音階や分散和音、そしていろいろな和音が目標へ真っ先に到着しようと互いに押し合いを演じ、この壮麗な曲を陽気に結んでいる。(p.116)
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