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佐藤卓己『テレビ的教養』

テレビ的教養 (日本の“現代”)テレビ的教養 (日本の“現代”)
(2008/04/25)
佐藤 卓己

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少し異色のテレビ文化史。この本は題名にもあるように、教育や教養という観点からテレビを見ている。そしてテレビに大衆的な教養の可能性を探ろうとしている。著者によれば、日本のテレビ文化の特徴は世界的にも珍しい「教育テレビ」の存在にあるという。といってもこれはNHKの教育テレビではなくて、教育にテレビを使うという流れが日本で発展してきたことを言う。例えば、現在のテレビ朝日は日本教育テレビとして営業を開始しており、現在のテレビ東京ももともと教育番組専門のテレビ局としてスタートしている(p.140f)。したがって、「日本のテレビ史は、より教育的に書かれてしかるべきなのである」。(p.23)

はじめに掲げられている教育と教養の違いが明確で参考になる。それによれば、教養とは選抜抜きの教育である(p.17)。教育とは知識や技能を習得して何らかの選抜、競争を勝ち抜くためにある。この選抜は学校教育では試験などであるし、社内教育では社内の出世や会社自体の他社との競争だろう。教養とはそうした選抜や競争を離れたところにある。テレビは学校に導入され教材としての可能性を議論されたように、教育のメディアとして使われてきたところに日本の特徴があるが、著者はこの教育メディアとしての役割の向こうに教養のメディアとしての可能性を見ようとしている。

最初に著者は戦後のテレビ教育についての基本的な考え方の由来を戦前に追っている。いつもどおり、それは戦前と戦後の連続性を論じるものだ。放送というメディアが、総力戦体制に国民を統合していくために使われた主要メディアであることは明白だ。特に、児童の自発的活動を促すといった、教育における個の重視というモチーフが戦前の軍隊の自立教育に由来するという議論(p.53-60)は面白い。第一次世界大戦までならともかく、第二次世界大戦では戦闘は細分化し多様な側面を見せる。そうした多様な戦闘に対して、一つ一つ司令部から指揮を発する訳にはいかない。現場の下士官レベルで判断して動かなければならない。そうした軍人像の教育が自立教育に懸けられていたのだ。

また、アメリカ的なテレビ文化、そのエンターテインメント主体の番組づくりと教育メディアとしてのテレビをどうバランスするかというテーマも深く追われている。特にテレビの放送方式についてアメリカの6MHz方式と、日本独自の7MHzのどちらを採用するのかを巡る論争が、教育メディアという位置づけの中でうまく扱われている(p.87)。6MHz方式を採用することがアメリカのテレビの低俗文化の侵略を招く、というテレビ有害論の反対論調は精神戦争のメタファーである。結局は1951年に6MHz方式の採用が決定される。これはサンフランシスコ講和条約に至る日本の独立機運を受けた流れだ。実際にはアメリカ方式を採用したからこそ、日本のテレビ機器がアメリカを席巻することになる。

テレビといえば大宅壮一の「一億総白痴化」という言葉が有名だが、これも上記のアメリカ批判のなかにあるという(p.103)。商業主義的なアメリカテレビ文化から日本の教育テレビをどう分離するかの話の中に、一億総白痴化の議論がある。こうしてスローガン的にテレビ有害論が確立される。とはいえ、この一億総白痴化が言われた1957年には、テレビを見ていた人は一億人もいない。1957年でテレビを見られたのは東京・大阪・名古屋周辺の受信者33万件で、普及率は5.1%(p.107f)。つまり一億総白痴化の議論は新聞や雑誌などのメディアを通じて得られたイメージでしかないことを押さえておくべきだろう。

著者はこの「一億総白痴化」から距離をとった教育テレビの試みを「一億総博知化」と逆手に取って論じていく。主に日教組の研究集会やその研究誌における教育教材としてのテレビを巡る論争をたどっている。こうしたテレビを通じて日本国民を教化するという発想そのものがまた「高度国防国家から高度経済成長へ続く教育国家の連続性」(p.132)を示すものだ。そして日教組の言論のなかには、こうした国からの強制に対して戦前の言論弾圧の風を感じる論調もある。

とはいえ学校の教育教材としてのテレビはあまり成功しなかった。代わりに、放送大学を始めとする市民的教養のメディアとしてのテレビが表に出てくる。こうした発展を遂げた日本のテレビは、大衆教養へと向かう。これは教養番組がエリートのためのものであるアメリカとの大きな違いだ(p.197)。こうして学校の軛を離れた教育テレビは、勤労青年の教育を経て、主婦の教養、そして生涯学習へ続く(p.201-216)。

しかし現在では教育メディアとしても教養メディアとしても、テレビの輝きが失われたことは確実だろう。現在のテレビはすでに「情報弱者」のメディアであって、直接的な活動的社会活動とテレビ視聴時間はおおむね反比例している(p.278)。著者は自身もテレビっ子として育った身として、情報や教養の格差を埋めるものとしてテレビを復活させること、誰にでも開かれた手軽な教養メディアとしてのテレビ(教養の水道p.282)、良質なテレビ文化を求めている(p.292)。それが21世紀の新たな公共圏への入場券としてもその位置を保つことを希望している(p.20)。

さて、個人的にはテレビについてほぼ何の思い入れもなく、テレビっ子でもない自分にはテレビ的教養の可能性を信じる気にはまったくなれなかった。家族の食卓にほぼ誰も見ているわけでもなく、単なる賑やかしとして付いているテレビは、家族間の会話が無い実情をその表面的な騒々しさで偽装するメディアでしかなかった。現代でも公共圏への入場券としてテレビは機能するのだろうか。それは、別にテレビを使わずとも公共圏へ入場できたものの単なる実感の無さだけなのだろうか。自分にはそもそも著者が熱っぽくテレビについて語るその熱がまったく共有できなかった。
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