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渡辺裕『聴衆の誕生』

聴衆の誕生 - ポスト・モダン時代の音楽文化 (中公文庫)聴衆の誕生 - ポスト・モダン時代の音楽文化 (中公文庫)
(2012/02/23)
渡辺 裕

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18世紀のモーツァルトの時代あたりから、西洋古典音楽がどのように聞かれてきたかを追った一冊。整理し過ぎかなと思える感じもあるが、総じてとても良くまとまっているし、読んでいて面白い。原著は1989年で、当時(というには少し時代が遅いが)のポストモダン的な解釈図式から論じられている。主に18世紀をプレモダン、19世紀をモダン、20世紀をポストモダンに振り分けながら(p.281)、西洋古典音楽という「高尚な」音楽の成立と、その変容を述べる。

現代の西洋古典音楽の聴き方に見られる、静まりかえったコンサートホールで一心に過去の名曲に聴き入るような演奏会のあり方は、元々あったものではない。それは、19世紀に起こった社会構造の変動の置きみやげである(p.75)。18世紀にはこんな聴衆はいない。倫理的で音楽を集中して聞き、低俗な聴き方をしない規範的な聴衆は近代人の神話(p.80)である。こうした静かに聞く演奏会は19世紀から見られるものであり、それは音楽文化の聞き手が貴族からブルジョワへ移行したことを意味している。著者はこのことをまず楽譜出版の分野でのマスカルチャー化に見ている(p.30f)。

ブルジョワへと普及した音楽は、パッと見て印象の強いヴィルトゥオーゾの興隆を生み出した。これに対してまじめに音楽を聴く人たちが分離して成立する。これはポピュラーとクラシックの分離のはしりだ。やがてヴィルトゥオーゾの熱が冷めると真面目派の論調が音楽会の潮流を支配する。識者とミーハーの軸、ヴィルトゥオーゾと過去の巨匠という対立軸が生まれてくる(p.31-37)。こうして高尚な「音楽家」の像が成立する。18世紀までの音楽家は芸術的良心に基づいた自立した存在ではない。19世紀になってからの巨匠の描かれ方は、19世紀的な見方を反映しているのだ(p.57)。こうした芸術的良心に従い、一つの完成された作品に向かって精力を傾けるという音楽家の像は、現代では薄い。例えば、様々な異版の録音の氾濫に、こうした音楽家の像を否定する動きを見ることができる。特にブルックナー8番に対する、第一次世界大戦を挟んだハースとノーヴァクの態度の違いが顕著(p.154-158)。

一方でこうしたモダンのまっただ中で、ポストモダンは準備されていた(p.290)。著者は単純な、機械的繰り返しというアイデアにこれを見る。まず自動ピアノの熱狂。自動ピアノによって、コンサートホールにピアニストの演奏を聴きに行くのとは違う音楽体験が夢見られる(p.122)。あるいはサティ。単純な繰り返しで表現性を排除し、解釈を不可能にしている。それは真面目に音楽を聞き、主題や変奏などその構造を解釈しようとする19世紀的聴衆を拒否して、新たな聴衆を求める最初の試みだ(p.127-129, 239-243)。

日本におけるブーニン・シンドロームもこうした文脈に位置づけられる。それはヴィルトゥオーゾのショーの再来だ(p.201-210)。真面目な音楽を志向し、娯楽性を放逐しすぎたことの振り戻しであって、現代の聴衆は近代からみれば芸術の堕落かもしれないが、近代の高級音楽が切り捨てた可能性の復権かもしれない(p.173)。機能や意味が確立された大人の文化から、子供の文化への移行が現代の聴衆の中に見て取れる(p.274-277)。
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