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大貫隆『イエスという経験』

イエスという経験イエスという経験
(2003/10/25)
大貫 隆

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いわゆる「史的イエス」を巡る論考。旧約聖書・新約聖書に書かれている事項をそのまま(宗教的)史実であると受け取る態度への抵抗が著者にはあるようだ。この本では様々な宗教学者の「史的イエス」を巡る論考を踏まえながら、著者自身の読みを提示する。なかでも、イエスの言動を導いた動機となった根本的な考え、そしてイエスが人々に提示した「神の国」と呼ばれる考えを巡る。著者はこれらをベース・イメージ、イメージ・ネットワークと呼ぶ。それは比喩やたとえ話によって人々にイメージを喚起する形で語られるから、イメージと呼んでもよいかと思う。ただ、conceptionと言った方がしっくりくる(訳しようのない単語だが、conceptやideaのように明確に意識されるものではなく、思考の内部に受胎conceptionして考えを導くもの)。

印象に残ったのはヨハネ(洗礼派)の影響下にあったイエスと、旧約聖書・ユダヤ的な伝統との距離だ。ヨハネはユダヤ教黙示文学からの影響が強い。それは出エジプト伝承から距離があることを意味している(p.32-36)。実際、共観福音書におけるイエスの言動には、出エジプトに関するものはほとんど出てこない。選民思想にイエスがコミットしないことも、ユダヤ的伝統からの離反を示すだろう(p.101)。

本書のメインはイエスの「神の国」の内実を明らかにすることだが、それは宴会における飲み食いのイメージだと何度も書かれている(p.56f, 105)。誰もがその宴会に招待され、ヤコブやイスラエルもいる中で床に寝転んで飲食する宴会。こうしたものがいまそこで実現しようとしていることがイエスのメッセージであったと言う。また、イエスの言動の根源的イメージとして、神を父と見なす考え方が取り上げられる(p.76f)。それも、「アッバ」という幼児語での呼びかけ。これも、預言者による排他的アクセス対象としての神を、誰もがアクセス可能な身近な存在へと引き戻す意図があっただろう。

イェルサレムの神殿冒涜から十字架刑死までの著者の読解は独特なもので、議論を呼ぶだろう。神殿冒涜の後、3日で新しい神殿が建つというイエスの言動は、「神の国」がまもなく到達するということの示威行動である。「神の国」をいくら説いても一部の人間にしか浸透せず、宗教的・政治的支配勢力から疎まれつつあったイエスの焦りともいえる。実際、最期の晩餐ではイエスはそうした焦りを示した(p.198-206)。十字架上のアラム語(と著者は記すがマルコではアラム語、マタイではヘブライ語)による絶叫は、結局こうした自身の示威行動が達成されず、自らの言動が水泡に帰し無意味な死となることの絶望であるとの読解である(p.212-215)。それにしては、ここでなぜイエスが根源的イメージたる「アッバ」ではなく、ユダヤ的伝統色の強い「神(エリ)」の呼びかけを行っているのかについては言及がない。

さて前書きにあるように(そして本文の記述にはほぼ関係ないことに)、本書の記述の発端となったのはG.W.ブッシュ・アメリカ大統領のイラク戦争を巡る言動のようだ。かの政権をキリスト原理主義と呼ぶ適否は検討してもしかたがない。ただキリスト教原理主義は聖書の記述を教条的に信じ込むのだといっても、では例えば彼らは『レビ記』の膨大な禁忌やマナーの規定をすべて守っているのだろうか?新約聖書に限られるのか?いったいキリスト教原理主義とは何のことなのか?それは措くとして、著者は「神の国」が死後、復活によって達成されるという後代のキリスト教的救済史を脱神話化して、いまここに「神の国」が成立したというイエスの言葉を受け止めようとしているのだ(p.259f)。
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