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坂部恵『和辻哲郎』

和辻哲郎 (20世紀思想家文庫 17)和辻哲郎 (20世紀思想家文庫 17)
(1986/03/19)
坂部 恵

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個性的な和辻論。これはかなり面白い。単に生涯を紹介したり主要著作を解説したりするようなものはない。和辻の思想を特徴的に表す著作を取り上げつつ、その構造や限界を指摘していく。それゆえ、取り上げられている著作としてもその論旨を述べるわけではない。思わぬところから出てくる著者独自の視点やつながりにはっとさせられる。例えば、和辻論で登場する他の思想家といえば西田幾多郎や三木清、カントなどだろう。これらももちろん登場するが、キーになるのは14歳上の同郷の柳田國男、そしてヘルダーだ。

一見、傍流に見える小さな著作だったり、当の本人がふとした機会に漏らした個人的体験から、当の思想家の根源的事項を取り出してくる。様々な論考を通じて、著者の論じ方の一つの特徴はこの点にあるだろう。和辻の最晩年の著作『歌舞伎と操り浄瑠璃』という(大部であるが)あまり知られない著作から、人間と世界の宗教的次元、構想力の源への関心を、青年期の観劇体験を引きつつ、和辻に基底的なものとして取り上げてくる(p.3-11)。「室町時代の構想力」として操り浄瑠璃に託されたこの発想が、有名な倫理学的著作の基本的着想にもあると見る(p.72)。
ときに幻視にまで高まる和辻の構想力の飛翔が、究極に落着する場所として、ある超越的なものと触れ合う境域をもつことは、いま文献の引用は省くが彼の幼少の頃から、「エキゾーテックな(外から来たものらしい)珍しさや、超地上的な輝かしさ」を語る『歌舞伎と操り浄瑠璃』の晩年にいたるまで、ときに応じて見えかくれする心底に深く根ざした資質であるようにおもわれる。円熟期の<体系的>著作の表面的印象を主にして、宗教人homo religiosusとしての側面は和辻において比較的稀薄であるとする大方の見方は、論者の読みの浅さを証する以外のものではないとわたくしはあえていう。(p.177f)


とはいえ、こうした宗教的側面はあくまで基底的なものに留まっており、和辻の思想の前面に出てくるものではない。著者からすればそれが和辻の思想の限界を示すことになる。例えば『人間の学としての倫理学』においては、存在概念を人間を中心に捉えることにより、人間的な限定を持たない端的な存在、メルロ=ポンティ的なキアズム、世界の開けを捉え損なっている。互いに排他的な個としての人間と、その総和という硬直で外的な視点で見ていることは、超地上的なものとの交流のような場へ存在論を深めていく道を理論的に自ら閉ざしている、と評価する(p.92-94)。

著者にはこうした和辻の外的で硬直した視点が、彼の西洋合理主義的な側面や、ひいては国粋主義へとつながっていると見るようだ。例えば『風土』において、インドの因明という比喩の論理を情的思惟の堕落形態として低く評価することなどがそうだ(p.125)。『風土』には日本の「古代の教団的な国民の結合」を持ち出すような、国粋主義の萌芽も見られる(p.228-231)。さらに、安土桃山時代に日本はキリスト教に一時開かれたが江戸時代で閉ざしてしまったことを、西洋合理主義を受け入れられなかったとして敗戦の遠因と見る戦後の『鎖国』の歴史観(これは国粋主義の裏返しだ)もその流れにある(p.248-251)。

しかし『古寺巡礼』のような「若い情熱」(p.162)の書では、日本文化の純血性を見るのでなく、その雑種性を進んで肯定する姿勢が見られることも指摘される(p.165-173)。典型的には自我と他者との隔たりを超えるような、超現実的、宗教的な次元を構想力として持ちながら、西洋合理主義的な硬直した図式をもう一方に持っていること、それが和辻の思想の構造である。そして晩年になるに従い後者の側面が前面に出てきて、国粋主義やその逆の西洋合理主義の姿を取ることになった。すなわち、「<語り>の<騙り>への転化という方法的陥穽におちることにたいする抵抗力が弱かった」(p.235)ことが指摘されている。

著者の読解の試みは非常に興味深いものだが、私にはその核心部が納得できるものではなかった。本書の最も核となる、和辻の基本的着想の根底にあるとされる「エキゾーテックな(外から来たものらしい)珍しさや、超地上的な輝かしさ」の宗教的次元を取り出してくる論証はよく分からない。その論証は、操り浄瑠璃と能楽を対比される形で出てくる。能楽に無くて操り浄瑠璃にあるものがあって、それが超地上的なものをもたらす。それは単純なポイント、つまり人形芝居として作られていることにあると言う。それが意味するのは、操り浄瑠璃は能楽が含む人間の自然性の否定を否定したということだ。能楽は徹底的に人間の自然的な生を捨象し、それによって死者、この世ならぬものをこの世に表現する。操り浄瑠璃はそうした人間性の否定を再度否定し、人形という形で自然を取り戻したのだと言う。これが超地上的なものをもたらすことは確かに納得のできるものではない。著者も実はそれを認めており、なんと母子の別離についての和辻の個人体験を死の象徴的体験に読み替えてこの論理ギャップを埋めている(p.34-42)。
ここでは少なくとも三つの点に躓いてしまう。(1)母子の別離の体験が死の象徴的体験と読み替えられること、(2)死の象徴的体験によって先の論理ギャップが埋められること、(3)能楽でなく操り浄瑠璃にこそ超地上的なものが見られるとされること。特に(3)についてはそもそも能楽こそ、生において死を表現することで超地上的なものをよくもたらすのではないのか。実際、後で能面を論じる際に、能楽においても死を持ち出すことによって、著者は操り浄瑠璃において浮かび上がらせたポイントを曖昧にしてしまっているようにみえる(p.67-69)。次のような文章は人形を能面に読み替えれば、操り浄瑠璃ではなく能楽についての文章としても通るのではないかと、浅学な人間には感じられてしまう。
死んだ物質である人形が、生きた自然の身体にまさって、「現実よりも強い存在を持ったもの」を作り出す。ここには、自然に根ざしながら、いわば象徴的転位によって自然と交叉反転chiasmの関係をとりむすびそれを超えて行く人間のもつ文化的世界の一つの集約された姿がある。人形の身体に集約される死と生の交換・交錯は、厳密に、より拡大されたレヴェルでの、生の世界と死の世界、<この世>と<あの世>の交換・交錯と同型である。そうであればこそ、それは、「エキゾーテックな(外から来たものらしい)珍しさや、超地上的な輝かしさ」を感じさせる超自然的、イデア的世界ないしは宗教的世界の提示に向くのではないか。(p.45f)
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