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ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質(下)』

キリスト教の本質 (下) (岩波文庫)キリスト教の本質 (下) (岩波文庫)
(1965/01)
フォイエルバッハ舩山 信一

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引き続き、キリスト教の人間学。神とは人間の類が個体化されたものだ。個々の人間は様々な限界を持つが、類としての人間は個々の人間が持つような限界を持たない。キリスト教は、信仰によってこの類としての人間を個体化した。だから、神は人間の希望や欲求によって規定されたもの。地上の人間にある制限は、信仰と空想のなかで取り払われる。

したがって定義上、信仰は現実的なものを非現実的にして、非現実的なものを現実的にする。その想像力は、感性や理性の真理には反する。特に晩餐におけるパンと水の化体では、このことが明らかだ。フォイエルバッハは化体の非真理について執拗に語る。

フォイエルバッハの目指すところは、キリスト教から真理を取り戻すことである。人間学的批判によって、キリスト教をその生きられた実相へ送り返す。フォイエルバッハは結局、キリスト教の批判を通じて、覆い隠されて限定されていた愛を取り戻す。彼によれば、愛はただ人間を自己目的とする。それは類の下にある人間へ直接的に向かう。キリスト教は愛の宗教と言われるが、それは信仰に媒介された、限定された愛である。フォイエルバッハが求めるのは、直接的な普遍的な愛、そして理性である。キリストとは、人類の自分自身に対する愛が人格化されたものだ。

以上に啓蒙主義というレッテルを貼るのはたやすい。愛と理性の普遍性については論じられていない。天下りに現れる。フォイエルバッハは、キリスト教徒が異教徒を愛せるのは、それが可能的なキリスト教徒である限りだ、と述べる。「汝の敵を愛せ」は私個人の敵でなければならない。キリスト教全体の敵に対するキリスト教の残虐さは、知られたところだ。相手がキリスト教の仲間に入る可能性のあるところで、キリスト教の愛は発現する。

だが、これは理性の普遍性と同じ構造ではないのか。私は他者を、可能的であれ理性的な行為者としてまず見なすのである。理性の外部は、まさしく「理解できない」。そこには真理はない。真理は理性のものだからだ。したがって理性の普遍性は、もしかしたら井の中の蛙である。ここにキリスト教との差異はさほどない。理性の普遍性の<信仰>--可能的な理性的行為者としての他者構成--もまた、フォイエルバッハの意味では新たなキリスト教と言えるのかもしれない。

とはいえ、私は次のフォイエルバッハの言葉に同意する。キリスト教は理性の非真理であることで、豊潤な問題を哲学に供給してきた。だがしかし、神を信じるよりは真理と合理性を信じた方が自分の好みには合う。「私は虚偽と同盟している天使になるよりも、むしろ真理と同盟している悪魔になる方がましである。」(p.11)
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