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イアン・ハッキング『記憶を書きかえる』

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム
(1998/04)
イアン ハッキング

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濃密な読書だった。最後の方になって著者の主張が分かった。そこまでは苦しい読書だった。


amazonに読書記掲載。
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これは記憶についての哲学の本だ。何よりも、著者ハッキングはカナダの有名な科学哲学者である。確かに本書は、精神分析がいかに受け入れられてきたか、受け入れられているかについて詳細な記述に溢れている。しかし本書の目的は精神分析の紹介でも、その受容史でもない。また、精神分析の批判や論難、悪口を主としたものでもない。著者の目的は最後の方になってようやく姿を現す。その目的を理解しないなら、本書を誤読する可能性は高い。

ではハッキングの目的とは何か。それは二点ある。

一つは、精神分析の登場により、記憶が人格の本性を構成するものとなったことを示すことである。それ以前は、魂(soul)が人格の本性だった。それゆえ、人格は哲学、宗教、倫理学が扱う問題だったのである。しかし精神分析の登場により状況が変わる。多重人格者を「多重の」人格と呼ぶ理由は、何よりも記憶が連続しないからである。記憶の連続性が人格を構成するのだ。さらに言えば多重人格を生み出すのは、しばしば幼児期のショッキングな「記憶」なのである。こうして魂に代わって、記憶こそが人格の本性をなすと考えられるようになった。精神分析は記憶を扱う科学なのだ。つまり「記憶の科学」(science of memory)である。人格は、精神分析という「科学」の対象となったのだ(さらに言えば、現在では脳科学という「科学」の対象ともなった)。
もう一つは、過去の不確定性を示すことである。これは記憶の不確実性ではない。記憶は曖昧であったり、思い違いがあったりする。そうではなく、過去が不確定なのである。ハッキングが論じるのは、過去についての(ある種の)反実在論である。ただし、ダメット的な過去の反実在論でも、大森荘蔵的な過去制作論でもない。重大な差異については後述する。ハッキングは、アンスコム以来の行為論に依拠する。つまり、ある行為者による行為は様々な記述を許す。例えば、道ばたで私の手が挙がったという出来事を考えよう。これは私が手を挙げたとも、タクシーを停めようとしたとも、駅へ行こうとしているとも記述できる。同一の出来事は、様々な記述の相の下に現れるのである。ということは、新たな概念を獲得して新たな記述が可能になれば、過去の出来事は違う相の下に現れるのである。過去は常に新たに捉え直される可能性があり、不確定なのである。したがって記憶も不確定である。ということは我々の人格もまた、不確定なのだ。我々は過去を捉え直すことにより、我々自身を作り替えるのである。

長くなったが、ハッキングは以上の目的を念頭に置き、精神分析に関する膨大な文献を読み解いていく。範囲はいわゆる精神分析家の著作に留まらない。多重人格が小説のなかでいかに扱われたか。新聞などでの、一般的な社会的受容はどうか。ハッキングは何よりも、人々が多重人格について、そして記憶についてどう考えてきたかを問題にしているのである。

こうしてハッキングは、多重人格者の記憶の危うさについて語る。精神分析家は、多重人格者の幼児虐待、カルト教団での洗脳などについて報告する。これらの報告は、ある時期から一気に増える。つまり、ある出来事を虐待などとして捉える記述が現れると、他の人もその記述によって出来事を捉えるようになる。だから、多重人格者の記憶とは、治療者が持つ記述に依存する可能性がある。多重人格者の記憶の成立に、治療者が関与しているのである。したがって精神分析には「科学者」の側から批判が多い。いわく、精神分析は客観的ではない、自然科学に値しないと。だが、著者は同調して「精神分析は根拠の薄い、エセ科学である」と言っているのでは決してない。それは過去が不確定であることを何よりも示しているのだ、というのが著者の主張である。治療者が「虐待」という記述をもたらすことにより、過去の出来事が新たに捉え直されるのである。

また、精神分析つまり「記憶の科学」がいかに成立していくか、詳細な記述がある。焦点は1874年から1886年までの12年間にある。どのように新しい記述が獲得され、使われていくか。その記述により、新たな出来事の捉え直しがどう生まれていくか。また、その記述に反対する人とのせめぎ合い、つまり「記憶の政治学」の様子。ここは著者も参照するとおり、実にフーコー的な議論である。

最後になり、ようやく著者の主張が現れる。それは前述したとおり、過去の不確定性である。ここで注意しておくと、この過去の不確定性はあくまで行為に関するものである。出来事が起こったか起こらないかについては、不確定性は無い。ここが大森荘蔵との重大な違いとなる。著者の例から言えば、父親が娘と性交したかどうかは事実・出来事の問題であり、有ったか無かったかどちらかに確定している。だがそれが、性的虐待であったかどうかについては不確定なのである。性的虐待という記述を持たない人にとって、その出来事は(当たり前だが)虐待ではない。

議論を呼ぶのは最終章だろう。多重人格者において、過去の出来事、例えば性的虐待の記憶がその原因となるのだ。ということは、そのような出来事の記憶が無ければ、原因は無い。したがって、症状も無い。だから、多重人格者に催眠術をかけ、その出来事が無かったという暗示をかける。虚偽記憶を与えるのである。すると、症状が治まる。こうして、19世紀後半の精神分析家ピエール・ジャネは、患者に催眠術をかけて「治療」した。これは「善いこと」だろうか?我々は、自分の都合の良いように記憶をコントロールしていけばいいのだろうか?
ハッキングの答えは否、である。ハッキングはどんなに辛い記憶であろうとも、それを自らのものとして引き受けていくことを要求する。出来事の真実を重んじるわけである。これはジャネを批判し、あくまで患者の本当の記憶を引き出していこうとしたフロイトの姿勢に重なる。つまり、「汝、自らを知れ」なのである。果たして、そうだろうか。「知らない方がいい過去」は、あってはならないのだろうか。そんなに「強い」人間となることが、我々の目標だろうか。

ここまででもかなり長い書評となった。しかしまだ述べたい論点がいくらもある。それほど本書は情報と興味深い観点に溢れている。膨大な議論ゆえ、読み解いていくのはとても疲れる。翻訳の出来が理解を妨げる箇所もある(原題"Rewriting the soul: Multiple Personality and the Sciences of Memory"の訳し方からも分かる。主題は魂を記憶に置き換えた歴史と、記憶を書きかえることにより魂を変えることのダブル・ミーニング。さらにハッキングは多重人格を生み出す「心のメカニズム」について語ったりしていない。そんなメカニズムは存在しない、というのが彼の主張である)。しかし、読解の努力には必ずや答えてくれる。学ぶべきものの多い本である。
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