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兼本浩祐『心はどこまで脳なのだろうか』

心はどこまで脳なのだろうか (神経心理学コレクション)心はどこまで脳なのだろうか (神経心理学コレクション)
(2011/05/01)
兼本 浩祐

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とても面白い。癲癇を専門に扱う精神科医が精神病に関する現在の脳科学的成果を踏まえつつ、そうしたアプローチでは見えないものについて論じている。話題は認知における再認と、通時的な自我という主体に及ぶ。脳科学や精神医学のテキストが登場するのはもちろん、哲学(特に現象学と心の哲学)やフロイト的な精神分析学の知見が多く動員されている(漢方医学なんてのも少し登場する)。ちなみに著者はフロイト全集の訳者の一人でもある。著者の持っている視野がとても広く、驚かされる。具体的な症例を引きつつ述べられる問題提起には、例えば哲学の側からも考えさせられることが多くある。

議論の出発点にはヤスパースの精神病理学がある。ヤスパースは精神病患者について、その我々とは異質な体験をできる限り「了解するVerstehen」ことを述べた。しかし現在ではこうしたアプローチは主流ではない。脳科学の急速な発展は、脳に対する物理的・化学的アプローチによって精神病に迫る流れを中心に据えた。しかし、脳科学的アプローチだけでよいのか。心はどこまで脳で説明できるのか、「私たちは本当にヤスパースを乗り越えて過去のものとしたのか」(p.vi)。

この問いは漠然としたものではなく、癲癇を主に扱う精神科医という著者の来歴によっている。癲癇は主に、大脳ニューロンの過剰な発火によって引き起こされる。一見これは実に物理的なメカニズムに見える。だが著者がピアニストの症例を引いて解説するように、そうした単純な話ではない。この症例では右手での痙攣発作が左手にも伝播する。もしこれが脳内の物理的メカニズムだけによるのなら、右手と左手の痙攣だけには収まらない、身体全体のものとなるはずだ。右手の運動野から左手の運動野に過剰な発火が伝搬される間には、多くのその他の運動野がある。著者はこの症例に対して、投薬によって癲癇発作を抑えつつも、最終的にはこれが「姉への妬み」という精神分析学的な、内因性のものによって了解することにより、寛解へ導く。つまり、著者は症例と向き合う際に、この症例というテキストを脳の文法で読んで投薬(や手術)をするのか、心の文法で読んで了解するのかという、二元論的選択肢に出会っている(p.15-21)。「心か脳かという二者択一に私たちてんかんを診る精神科医がこだわりがちなる」(p.23)理由だ。著者の治療実践においては、脳に対するアプローチでは解決できない、心へのアプローチを必要とする領域がある。それが我々が脳についてまだよく分かっていないからかどうかはともかくとして。

かくして内因性精神疾患へのアプローチの重要性を著者は説く。外因、内因、心因という現在では旗色の悪い区分を、著者はハードウェア、ソフトウェア、印刷テキストという比喩で説明している(p.29-39)。外因性とは脳の物理的構造、内因とはシナプスによる回路網として構造化された情報体系、心因とは顕在化された情報に関わる。心因と内因の区別にヤスパースの了解概念が関わる。心因は社会的に共有されたコードで了解可能なものをを言う。例えば失恋で気持ちが沈んでいるようなものは一般的に了解可能であって、心因性である。この一般的な了解可能性を超えるもの(かつ、脳の物理的障害に依らないもの)が内因性と説明される。この比喩は明快なようで以下の三つの点でミスリーディングとも感じる。(1)シナプスは可塑的であって、自ら組み変わる。通常のソフトウェアは可変的な部分はデータとして分離し、ソフトウェア自体は変化することがない。(2)印刷テキストという表現はどうにも随伴説に傾いている。(3)了解可能かどうかというポイントが、ソフトウェアとその表象としての印刷テキストという区別には関わってこない。

さて、本書で面白いのは連合型視覚失認の症例解釈について。この症例患者は、目で見て物の名前を言うことができない。ただし、実物を見て模写はできるし、触ったり、その物が発する音を聞くと途端に理解し呼称できる。機能や性質を謎掛けのように列挙されると(「~で~なものは何だ」)答えられる。いくつかの物を提示されて正しいカテゴリー分けができる。呼称ができるもの(例えば靴)に対しても、靴を提示されると「強いて言うなら靴としか言えないが、靴ではない」などと答える(p.61-71)。

特に最後の応答を著者は解釈して、概念として理解しているが目の前の個物にそれを見て取ることができない、目の前の個物を再認できないというポイントを取り出す。この物とあの物が同じ靴だという判断ができない。それは多様な現象を意味によって取りまとめ、経験を秩序付ける機能であり、ラカンがいうpoint de capitonである(p.88)。ここから著者はイデア論に触れる。ラッセルの群概念説(記述の束としての個物)を批判しつつ、アリストテレスの種的形相に対するエパデーケーを取り上げる。類的な概念としての「靴」ではなくて、個物における形相を把握する能力としてのエパデーケー。この能力の欠如を連合型視覚失認の症例に位置づけている(p.94-97)。

本書が最もメインにしているのは、私(意識、自我)の成立に関してだろう。著者はデネットを引きながら、意識は共同体的言語という他者との共通のコードが、脳の並列的に作動する諸機能を直列的に括り直す再帰的な効果として生じると述べる。個々の瞬間的なコギトの意識を超えて、通時的な意識を成立されるものは脳の外側にある(p.138-141)。つまり、「私の内側で自分探しをする限り、また脳から眺める限り、1つのものとして私を貫くような「わたしくしといふ現象」は見つかりそうもない」(p.188)。こうしたことの自覚は、つまり一定の一貫性を持った私なるものが自律的に持続的に存在することは自明ではないことの自覚は、ハイデガーの現存在の頽落やキルケゴールの絶望、ソクラテスの死の練習としての哲学として述べられる(p.177f)。

とはいえ、例えば随伴説を取るエーデルマンにならって、存在するのは脳だけであり、自我の持続性は錯覚だと著者は述べたいわけではないようだ。いわば脳であって心でない、この一貫した自我というものについて、著者はデネットを引用する以外ほとんど何も言えていない。著者が書いているのは、私の脳は調律された楽器のようなものであって家族や周りの人がそれを奏でるだとか、素人のブログにあった詩的な文言を引いてくるとかで、ここで詩的な言葉に議論が置き換わって崩壊してしまっている(p.177f)。この記述には極めて残念で落胆せざるを得ない。問題の定位はできていても、その内実は追えていないのだろう。

以上、脳科学、精神医学、哲学、精神分析学を渉猟しつつ、脳と心の二元論に挑もうとする姿勢と視野は素晴らしいものだ。とはいえ、著者はやはり哲学の専門ではなく、特に私がある程度知っている現象学についての記述には不満なものが多い。全般的にいえば、著者は現象学を、直接意識に現前するものを対象とするように限定したものと捉えている(p.144)。経験的議論と超越論的議論の区別が付いていない。著者の現象学理解の問題点について、4点を記載しておく。
(1)下記のノエマ概念についての理解は、端的に誤っていると思われる。「行為している私(=ノエシス)と私が行為していることの自覚(=ノエマ)」(p.178)
(2)現象学の知覚における地平の概念から、その知覚の理解を記述の束のように扱い、目の前にある個物をありのままに眺めるアプローチでは靴が靴であることの自明性、個物の形相には到達しないと述べている(p.96f)。事態はまさに真逆であって、連合型視覚失認は類概念は理解しつつもトロープを理解できない事例なのではないか。現象学の知覚理論のなかにまさに著者が言いたいポイントは含まれている。
(3)私というものがすでに成立していて、感情移入によって他者に心を開くというのがフッサールの議論であって、これは蛸壺理論だというよくある『デカルト的省察』第5省察の誤読(p.138-141)。フッサールの議論は超越論的相互主観性についてだ。デネット的に共同体的な言語使用が関わるかはともかくとして、自我の成立にあたって常に既に他者が構成的に含まれているというのはまさにフッサールの議論。
(4)現象学は直接意識に現前するものだけを対象とするので、その都度のノエシスしか対象にしない。自身の来歴を持つ、連続した自我は現象学の対象になりえないと述べている(p.144)。時間意識の現象学の話が抜け落ちている。記憶はワーキングメモリに活性化された形でしか存在せず、その都度の現在において過去を形作る、つまり記憶ではなく想起としてのErinnerung(p.158-160, 176)という話は、時間意識の現象学とさほど距離はないのではないか。
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