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インドロ・モンタネッリ、ロベルト・ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史 (上)』

ルネサンスの歴史 (上) (中公文庫)ルネサンスの歴史 (上) (中公文庫)
(1985/02)
I.モンタネッリ、R.ジェルヴァーゾ 他

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イタリア・ルネサンスの時代、つまり「黄金世紀のイタリア」(これが原題)を人物中心に描く。歯切れがよくスムーズな記述で読みやすい。扱われている時代は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の死去(1250)から、「ヨーロッパ世界の重心が地中海から大西洋へ決定的に移行したことを示している」(p.299)コロンブスによるアメリカ到達(1492)あたりまで。登場する人物はローマ教皇を中心に、文人たち(ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ)、都市の僭主と商人たち(ヴィスコンティ、メディチ家、エステ家)など。

記述の核となっているのは、イタリア統一をもくろむ神聖ローマ皇帝側につく皇帝派と、それを阻むローマ教皇側につく教皇派の争いだ。ローマ教皇側は自らの権力を維持するため、世俗権力の強大化を阻止する必要があった。「教皇庁をかかえ込んでいる以上、イタリアが統一国家になる可能性はなかったと言うべきである」(p.11)。イタリア統一をもくろむホーエンシュタウフェン家のマンフレディに対抗し、ウルバヌス4世はフランスを引き入れる。かくしてシチリアにおいてシャルル・ダンジューからアンジュー王国が始まる(1266)。

14世紀初頭に隆盛を誇ったイタリアの都市も皇帝派と教皇派の争いから描かれる。ジェノヴァは背後に山脈があり、皇帝派と教皇派(と自由都市)の争いに巻き込まれなかった。背後に潟を抱えたヴェネツィアも同様。ピサはこの争いに巻き込まれ衰退していく。フィレンツェには激しい争いがあったが、1289年のカンパルディーノの戦いで教皇派が勝利し商工業に没頭することができた(p.24-30)。

やがて教皇庁自体がフランスを頼ってアヴィニョンへ移転してしまう(1305)。かくしてローマは衰退の一途をたどる。教皇庁がローマに戻ってくるのは62年後の1367年だ。その背景には、百年も続く英仏戦争によりフランスに余裕がなくなったこと、ヴィスコンティ家のミラノ公国がジェノヴァを支配する(1353)など、ミラノ公国によるイタリア統一可能性があったことが挙げられている。ともあれ教皇庁はローマに帰ったが、惨状はひどい。ローマには産業もなく、コロッセオもゴミ捨て場。ローマに帰還したウルバヌス5世、ついでグレゴリウス11世、その後のウルバヌス6世が即位するにあたって、イタリア勢力とフランス勢力が対立。ローマとアヴィニョンのそれぞれに教皇が立つ分裂状態となる(1378)。この分裂には大きな意味がある。それは「民族国家が確立してそれぞれが自国の教皇を望むという政治情勢の、ひとつの帰結」(p.153)だからだ。この分裂状態は1417年にマルティヌス5世が即位して解決するが、その際に取られた手段が公会議の開催。

公会議は教皇の権力を制限しコントロールしようとするが、教皇庁はこれに対抗。エウゲニウス4世とバーゼル公会議の対立の意義が大きい。公会議はフランス王シャルル7世の力もあり、エウゲニウス4世を廃位させる。こうして教皇庁の改革がなされ、教会の古い権威主義体制が崩壊し、この「ブールジュの国事詔勅」により民族別の独立教会に道が開いた、ルター以前に宗教改革が成功したに見えた。ここに教皇庁側の奇策がヒットする。ギリシャ正教との合同公会議、フェラーラ公会議の開催(1438)。ここにルネサンスの大きな源となる、東方世界との交流が開かれる(p.160-167)。

東方世界との交流という点では、フィレンツェのメディチ家当主、フィレンツェのみならず「イタリア全体の父」(p.204)たるコジモ・デ・メディチが1439年に東西両教会合同の公会議を要請する。メディチ家はこの後、フィレンツェにプラトン・アカデミーを設立するなど、ギリシャ文化の輸入に大きな役割を果たした(p.226f)。一方、ローマの都市としての復興はニコラウス5世、ピウス2世、シクストゥス4世の三人の教皇によりなされる。だが著者の評価は低いようだ。
ローマの都市としての再興は、たしかにこの三教皇の力で成し遂げられた。しかし、カトリック教会は三教皇にそれほど恩義を感じる必要がない。かれらは教会を巨大な文化事業体に変えてしまい、霊魂や宗教の問題には関心を示さなかったからだ。かれらとともにルネサンスが聖堂の中へ入って行った。そして神は聖堂から出て行った。(p.267)


翻って考えるに、13世紀に西欧文化の頂点にあったのはイタリアではなくフランスである。それにもかかわらず、ルネサンスはフランスではなくイタリアで開花した。その理由は、フランスでは国のエネルギーが民族統一、国民国家建設に向かったからだとされる。イタリアではカトリック教会の意向もあり、統一国家は目標にもならなかった。それぞれの都市が他に目を向けることなく、芸術を開花させたのだ。イタリアにいたのは傭兵集団であって、市民は武器を持つことがなかった。それでは祖国、名誉、忠誠といった価値は生まれない。「兵士の育たない国では、「市民」もまた育たない」(p.278)のだ(とはいえ、傭兵の跋扈はローマ帝国の時代から同じではないだろうか)。ルネサンスをイタリアで開花させたのは、東方世界との交流、商業の発展による新興ブルジョワジーの登場だけではないのだ(p.6-8)。

この本の魅力の一つは、人物の皮肉めいた描き方だろう。教皇なのに横暴で背徳的なボニファティウス8世(p.33-41)、淫婦で残酷な人間として描かれるナポリのジョバンナ女王(p.250-252)、敵味方を何度も取り替え、侵略と淫虐にふけるイギリス人の傭兵隊長ジョン・ホークウッド(p.148f, 269-273)。こうしたところは思わず爆笑してしまうくらいの面白さがある。
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