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インドロ・モンタネッリ、ロベルト・ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史 (下)』

ルネサンスの歴史 (下) (中公文庫)ルネサンスの歴史 (下) (中公文庫)
(1985/02)
I.モンタネッリ、R.ジェルヴァーゾ 他

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この下巻は元々、『反宗教改革のイタリア』という本。宗教改革とそれへの反動として15世紀、16世紀のイタリアを描いている。人物としてはミラノ公のルドヴィーコ・スフォルツァ(1452-1508)とフランス王シャルル8世(1470-1498)から始まり、ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)の火刑まで。イタリア史の本ではあるが、この本の中心となるのはドイツの宗教改革、そしてプロテスタントの広がりを巡る神聖ローマ皇帝、フランス王、スペイン王(ハプスブルク王朝)である。ローマ教皇庁はその関わりで出てくる。というのも著者の見立てでは宗教改革を機に、ヨーロッパ史はイタリアから(むしろ地中海から)離れる。イタリアは自律性を失い、他国の大きな影響下にある舞台装置になっていく。

宗教改革はあまりイタリアでは主流にならず、むしろ反動が多く見られた。イタリアにも宗教改革の機運が無かったわけではない。例えばフィレンツェを一時期メディチ家の支配から抜け出させたサヴォナローラ。この人物の活躍は中世の終りを示すと見られるようだが、教皇に真っ向から反対し、聖者のように生き、自らの信念と信仰に死するこの人物を、著者は20年後の宗教改革の先取りと見ている(p.21f)。ちなみにかのチェーザレ・ボルジアはこのサヴォナローラに次いで扱われるが、評価が高い割に教皇軍総司令官としての活躍しか描かれていない(p.36)。

ヨーロッパを宗教改革に巻き込んでいく背景について、著者はいくつものことを書いている。例えば、次の三つ(p.53-58)。(1)都市化。都市の住民、とりわけ商人と職人はそれまでの農民たちの素朴な信仰ではなく、科学的な目、因果律で考えだしたこと。(2)文化の自律。とりわけルネサンスの成果により知識が世俗化したこと。(3)教皇庁に対抗しうる、都市国家中央権力の確立。国家共同体が宗教共同体を浸食する。あるいは、ドイツ農民の反乱と、鉱業の発展によってフッガー家など富裕層が誕生し不平等の拡大への不満が募っていったこと、ドイツの中心がミュンヘンやアウグスブルクなどの南部から、ブレーメンやハンブルクなどイタリアの影響を受けない北部へ移動したこと(p.100-105)。また、メディチ家出身の教皇レオ10世は世界の首都としてのローマを蘇らせるべく、文化事業に多くの資金を投じた。前教皇のユリウス2世から引き継いだ資金もやがて空になり、免罪符を多発する。これがルターの批判の的となる(p.86)。

宗教改革に関してルター、ツヴィングリ、カルヴァンなどの記述が大きい。またカール5世とフランソワ1世の対立、それを利用する・利用される教皇庁とイタリア都市国家(ただしヴェネツィアを除く)、という構図がずっと続く。この合間にエラスムスを筆頭とする知識人たち、ダヴィンチやラファエロなど芸術家も登場する。カール5世とフランソワ1世の話に戻れば、ランツクネヒト軍団によるローマ掠奪(1527)の描写はかなり印象的で面白い(p.149-152)。芸術家の中では、悪徳の限りを尽くしつつも権力者に保護された芸術家チェリーニが光る。ルネサンス期のイタリア冒険児の典型とされている(p.239-244)。

イタリアで宗教改革が広まらなかったことについては、次の三つが書かれている(p.286-288)。これらは北ヨーロッパで宗教改革が拡がった理由の裏返しだ。(1)経済の利害対立の不在。イタリアは全欧のカトリック教会から十分の一税などを徴収して金が集まっていた。困窮して教皇庁に反感を抱く動きはない。(2)宗教問題を真剣に考える契機がない。イタリアの寛大な精神風土や、多神教的な聖人崇拝。イタリア知識人は確かにカトリック教会の支配に反抗したが、その先はヒューマニズム、ギリシャ古典研究であって、聖書研究ではなかった。(3)最大の理由として、教会に対抗できるだけの世俗権力がなかったことである。

宗教改革に対するカトリック教会の立場を定めたトレント公会議(1543-1563)への評価は低い。そもそもこの公会議自体、開催しては中断しを続けて結論までに20年を要した。その結論にあったのは、ハプスブルク王朝の世俗権力と、ローマ教皇庁の精神権力の結託だ。個人の宗教的良心はまったく考慮されず、精神世界の思想犯を世俗の権力を借りて取り締まる体制。ローマ教皇は世俗権力の力を得て、自由の圧殺が可能になったのだ。

外国の力を大幅に借りることになったイタリアはついに、スペインの支配に屈すことになる。しかしその支配によってイタリアは数百年の争乱から脱した。これにより、イタリアは外国の歴史の単なる反映となったのだ(p.356-358)。
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