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フェルナン・ブローデル、フォルコ・クイーリチ『都市ヴェネツィア』

都市ヴェネツィア―歴史紀行 (同時代ライブラリー)都市ヴェネツィア―歴史紀行 (同時代ライブラリー)
(1990/03/09)
F. ブローデル

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個人的な気持をいえば、私は敗者というか、棒で殴られる人たちの味方になりたい。たとえ彼らが--ビザンチン帝国の場合、まさにそう言わざるをえないのだがーーそういう結果になるようなことばかりやっていたとしても。しかし歴史は裁くためではなく、説明するために書かれるものなのだ。そもそも<1984年>の世界という、この不条理きわまりない世界の市民である私たちに、審判者を気取る権利があるだろうか?私たちの時代は、ザーラやコンスタンチノープルの物悲しい勝利者たちと同じようなことを--同じような悪事を働いているのだ。(p.69)
ブローデルによるヴェネツィアについての随筆と、クイーリチによる写真を組み合わせた一冊。ヴェネツィア、すなわち「全世界の愛の交差点で、つねに燃え続ける炎にほかならぬヴェネツィア」(p.157)について、もちろんブローデルはその歴史を語るが、何よりも自分がヴェネツィアに行った際の個人的記録が多く出てくる。その文章が味わいがあってなかなかよい。クイーリチの写真もいいタイミングで本文に挟まれている。

ヴェネツィアの魅力とは何かといえば、過去が生きていることだ(p.49f)。ヴェネツィアは過去に満ちていて、そこかしこに歴史があふれている。時間の流れが他の都市とは異なっている。ヴェネツィアはビザンチン帝国を最初は経済的に搾取し、最後は政治的に支配することによって成長した都市である(p.66-69)。しかしこの本でのブローデルの視点は、そうした東方との関わりの中で海洋国家として隆盛を誇ったヴェネツィアだけに向けられるのではない。18世紀のヴェネツィア、享楽の楽園たるヴェネツィアについて語るのが興味深い。

18世紀のヴェネツィアはほぼ注目されないが、第二の偉大な時期である。その享楽的、自由奔放な姿は頻発するカーニバルに見られる(p.108f)。リオのカーニバルはその一時の爆発的美しさだが、ヴェネツィアのカーニバルは軽やかに繰り返される、一年の長い期間続く連続的な出来事である(p.118f)。ヴェネツィア自体の勢力は16世紀から衰退していく。18世紀はヴェネツィアの秋だが、秋が一番美しいのかもしれない(p.120)。

こうしてヴェネツィアは祝祭空間として域外の多くの人間を集める。世界中がヴェネツィアが観光地であることを欲し、ヴェネツィアもそれを受け入れた(p.148f)。ますますヴェネツィアには観光客が増大していく。それらがもたらす様々な危惧もある。騒々しい観光客から離れて、もっともヴェネツィアらしいものを見いだせるのは、大運河の右岸、リアルトのカンポだ。ヴェネツィアの庶民はこの市場にいまなお見られる(p.20)。ヴェネツィアを劫かす観光客以外のものは、イタリア本土対岸に位置するマルゲーラ=メストレ地区だ。ここにはコンビナートが急速に発展している。その立ち並んだ工場の排煙と、地下水の汲み上げはヴェネツィアを確実に蝕んでいる(p.153f)。

ヴェネツィアの未来について、ブローデルはこの都市があらゆる文化の交差点になるべきだと書く(p.159-161)。「人間的基盤とも言うべき庶民を緊急に再創造すること」(p.160)が必要であり、さらにジョルジョ・チーニ財団を活用してここに国際大学、全世界に開かれた大学を創立することを記している。

膨大な歴史的知識と、ヴェネツィアへの深い理解に基づいたブローデルの美しい文章だ。ヴェネツィアという都市について理解を深めてくれる。
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