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藤沢道郎『メディチ家はなぜ栄えたか』

メディチ家はなぜ栄えたか (講談社選書メチエ)メディチ家はなぜ栄えたか (講談社選書メチエ)
(2001/03)
藤沢 道郎

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中世ルネサンスを支えたフィレンツェのメディチ家、特にコジモ・デ・メディチ(1389-1464)について書かれたもの。メディチ家がどのように歴史に登場し、どのようにフィレンツェ共和国を陰から支配したか。また、メディチ家の生業である銀行がどのように展開したか。そしてルネサンスをいかに支えたか。つまり、由来、政治、経済、文化について語られている。政治や経済に関するところは、複雑なしくみを平易に読み解いていて分かりやすい。

メディチ家はコジモの父親に当たるジョヴァンニ・デ・メディチ(1360-1429)によって、それまで埋もれていた歴史の暗闇から出る。彼が銀行業を大きく発展させ、メディチ家の基礎を築いた。ジョヴァンニは、単に商売のうまい銀行家ではない。カトリック教会がローマ派、アヴィニョン派、そして公会議派に分裂した中で、公会議派から教皇に選出されたヨハネス23世との関わりが取り上げられている。ヨハネス23世は謀略により教皇を廃位させられるが、ジョヴァンニは彼の解放を3年に渡って新教皇に嘆願した(p.39f)。こうした義理を通す、情に厚いところがメディチ家の特徴となる。この態度はフィレンツェ市民の支持も得る。市民の支持、情に厚い経営者、洗練された革新的な趣味と教養がジョヴァンニの特徴である(p.47)。

ジョヴァンニが築いた基盤の上でコジモが力を発揮する。本書にはコジモの政治的策略の巧妙さがいくつも書かれており、その手腕がうかがえる。勢力を誇るメディチ家に対して、旧来からのフィレンツェ支配層、特にアルビッツィ家との係争が発生する。アルビッツィ家は隣邦のルッカへの侵攻を企てたが失敗し、多額の戦費の支払いだけが残った。1433年、リナルド・デリ・アルビッツィは対ルッカ戦争の失敗による財政悪化をメディチ家になすりつける。ここでコジモは、投獄されることを承知で姿を現す。アルビッツィの陰謀についてはすでに知っており、諸国と市民の支持からして死刑になることはない。フィレンツェを追放になっても近郊で力を蓄えてくれば良い、との計算だ(p.74-90)。もちろん暗殺のおそれはあったから、かなり勇気のある大胆な行動である。

コジモという人間はかなり複雑でつかみにくいようだ。愛読書が聖グレゴリウスの『モラリア』だったという話がある。この本は中世神学の基礎となった著作で、カトリック教会の中心的著作だ。一方でコジモは幼い頃から、中世神学の呪縛から逃れようとしていたウマニスタたちの著作に親しんでいた。もちろんそれがルネサンスのパトロネージにつながっている。コジモの本当の信条は『モラリア』にあり、ウマニスムは富と権力のための方便だったのか。よく分からない(p.72-74)。

コジモのメディチ銀行について、1435-1457年を第三期メディチ銀行として評価している。その特徴は政治、経済、文化の三つの世界に対する複眼的思考である(p.138f)。有能な人物の適材適所という人事的センスも光っている。どこにどれだけの資金を投じてビジネスを行うかは、コジモの政治的思惑ともリンクしていた。メディチ家の生業である銀行業については、中世の銀行業について注記が3つ、カトリック教義、貿易、企業形態という点からなされている(p.112-121)。カトリック協議からすれば、利息を取るのは悪徳である。そこで、メディチ銀行の主な業務は両替だった。両替の手数料であれば、利息と違って教義に反しない。また、銀行といっても貿易商社の役割を大きく備えている。特にメディチ家は、書籍とミョウバンの貿易に携わっていた。最後に企業形態としてはパートナーシップを取っていた。各支店は独立採算制であり、メディチ家本家は持株会社に近いイメージ。これは中世の当時では情報伝達に時間がかかるため、逐一本店から指示するよりは独立採算で判断させたほうが効率が良いということがある。それよりも、フィレンツェでは従業員として他人の支配を受けている人間は参政権がなかったので、独立させておいてメディチ党の票数を増やすという意味もあった。

フィレンツェは共和国で、その総代表となる「総務」と「正義の旗手」はたった二ヶ月で変わる。フィレンツェの共和主義イデオロギーは強く、独裁的な手法は極端に忌み嫌われる。こうした中でメディチがフィレンツェを独裁的に支配したのはどういうわけか。本書では、「総務等選出準備委員会」(accopiatore)という本来は非常時のために設けられた制度をずるずると延長して、役職の選出権限を握ったメディチ家の支配構造が詳細に描かれている(p.157-163)。決して表には出ず、裏から支配するのがメディチ家のやり方だった。メディチ党という一派があったが、これも明確な政党らしいものではない。特にライバルだったアルビッツィの党派との比較で言えば、三点(p.168-172)。メディチ家の特徴である、情に厚いこと。イデオロギーをもたないこと、フィレンツェの共和主義イデオロギーは尊重するが支持しない。下層の無権利大衆の支持。共和主義イデオロギーは権利ある市民のためのものでしかなく、それを額面通り支持することは、実は大衆の支持を得られないと見抜いていた。

文化の側面では、コジモは優秀な芸術プロデューサーである。芸術においても、新人カスターニョの抜擢、リッピの育成、ドナテッロのパドヴァ派遣など、メディチ銀行でやったような適材適所が光っている(p.237f)。また、この芸術の育成においても政治的・経済的観点が絡んでいる。1430年代には、アルプスの北に発しミラノで隆盛した国際ゴシックがルネサンス様式より優位である。例えば、メディチ家のライバルであるストロッツィはゴシックを支持している。そんな中で、国際的流行から外れたルネサンスの新人を支持し続けたのはコジモの慧眼である。しかも、ゴシックとルネサンスの二つの様式の対比など、リアルタイムに明確であるわけがない。その微妙な差を捉え、しかもルネサンス様式を次世代の流派として認識し、フィレンツェでそれを発展させることにより、文化的にもフィレンツェが優位に立つという構想をコジモは描いた。

メディチ家というと、コジモの孫に当たり、「偉大な人」(il manifico)とも言われるロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)が頂点とされる。だが著者は、コジモの晩年にすでにメディチ家の凋落が始まっていると見る。例えば、コジモは銀行業の安定的発展のためにイタリアの平和を求め続けた。コンスタンチノープルの陥落という外圧のもと、1454年のローディの和でイタリア諸国間の抗争は大筋で止み、平和が実現する。しかしこのことは、フィレンツェ政治の正常化を求める声となり、非常事態の政治機構に頼っていたメディチ党の支配を危うくさせることになる(p.190-194)。またルネサンス文化についても、これは個人の傑出した能力に光を当てることになった。それは単独の個人の特出を嫌うフィレンツェの共和主義イデオロギーに反していたのだ(p.202-208)。

かくしてコジモの後継者たち、子ピエロ、孫ロレンツォにしても銀行業に携わらず、芸術のパトロンとなり貴族化を進める。メディチ家の経済基盤は揺らぎ、貴族化により無権利市民との距離も開いていく。豊富な資金による敵対勢力の買収と、市民層の最終的な支持を当てにしていたメディチ党の権力基盤も揺らいでいくことになる。メディチ家の土台骨は腐り始めていたのだ(p.256f)。コジモの偉大な業績は次のようにまとめられる。
メディチ銀行をヨーロッパ最大の銀行に育て上げ、粘り強い外交努力でイタリア半島の戦乱を終わらせ、1458年のパルラメントを乗り切って制限抽籤制すなわちメディチ党独裁体制の基盤を安定させ、公会議を誘致して文化都市フィレンツェの名を世界に知らしめ、プラトン・アカデミーを設立して思想界の位相を変換させ、さらにフィレンツェ・ルネサンスを協力にバックアップしてイタリア全域に新様式を普及させたとき、コジモの「野望」はあらかた実現したように思われる。(p.243)
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