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スーザン・ケイン『内向型人間の時代』

内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力
(2013/05/14)
スーザン・ケイン

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外向型の人間が特に重視されるアメリカの社会に抗して、内向型人間の意義と重要性を説く本。とても面白い。人口の3分の1から2分の1くらいはいるとされる(p.325)内向型人間に勇気を与えてくれる。また、内向型人間の活かし方を述べているだけではなくて、外向型人間と内向型人間が上手く付き合う方法であるとか、子どもが内向的であった場合にいかに伸ばしていくのかという教育法についても書かれている。

著者の見るところでは、アメリカは元々、外向型人間が重視される社会だ。それはアメリカという国がヨーロッパの貴族階層に対抗するように形作られたから。内向型人間が重視するような教養や慎重さ、熟慮といった特性に対して行動を重んじたのが初期のアメリカ指導層だった(p.48f)。これが一般にも拡大したのは20世紀になってからと見られている。20世紀になってアメリカは、自分がどうあるかを重んじる「人格の文化」から、他人からどう見られるかを重んじる「性格の文化」へ移行したのだ(p.37)。象徴的なのは心理学者アドラーの「劣等感」という言葉で、これが性格の文化へ移行するなかでの社会的不安に心理学的な概念を与えた(p.44)。

外向型人間の重視はしたがって、特にアメリカに見られる文化だ。そしてそれなりの問題がある。著者は様々に、外向型人間ではうまくいかない例を出している。リーマン・ショックとエンロンの危機において、短期的利益とインセンティブからなる外向型人間の文化が寄与していることはよく言われることだ(p.207-211)。外向型で、雄弁で自己主張の強いリーダが有能とは限らない(p.69-77)。どんなリーダが良いかはメンバーによっても決まる。メンバーが受動的なら外向型リーダ、能動的なら内向型リーダがよい(あるいは、そうしたリーダのもとではメンバーは受動的・能動的に変わる)(p.78-81)。外向型リーダはその雄弁さで、重要な意見や問題点を覆い隠してしまう。外向性は創造性を阻害してしまう。創造はたいがい、孤独に行われるものだ。ブレインストーミングは(少なくとも直接に対面するものは)実は効果が薄いことが書かれている。アイデアは一人で発想するほうが出てくるのだ(p.110-114)。ブレインストーミングの論点についてはあまり納得しなかった。一人よりは内向型の二人か三人くらいの方がよい感覚がある。

外向型と内向型の違いをもたらす脳科学的考察についても書かれている。内向型人間は扁桃体が発達していて、外部からの刺激に敏感に反応する。未知のものに対して大きな反応を見せる高反応の幼児は、実は内向型に育つことが多い(ジェローム・ケーガンの実験)。未知のものに興味を示すから外向型になるかと思いきや、快・不快を司る扁桃体が過敏に反応するため、未知の刺激(例えば知らない人)に用心深くなるのだという(p.126-133)。一方、外向型人間はドーパミンの分泌量が多く、脳の報酬系が敏感に働いている(p.203-205)。もちろんこうした事柄を論じるには、気質と性格を区別することが必要だ。なお、こうした周囲の刺激に敏感な人間がいる進化的意味は、敏感さそれ自体にではなく、それに伴うことが多い慎重な思慮深さにあると考えられている(p.186)。

ともあれ、内向型人間は人との接触を恐れているわけではない。内向型は調和性や親和性といった点では外向型と変わらない。外向型人間から見れば内向型人間は付き合いにくい存在だろうが、それは付き合い方のタイプが違うだけなのだ。内向型人間は目新しさや過度の刺激に不安を感じる(p.315)。だから、未知のものの刺激が少ない環境では、内向型も開放的である。例えば、SNSへの投稿がそうだ。SNSは見知らぬ人と直接に対面しない。内向型のほうがSNSにおいて積極的だという話もある(p.87)。現代は、内向型がアピールできる時代でもある。

未知なるものへの恐れや躊躇はもちろん、克服することができる。また、内向型人間が思わぬ積極性を発揮して、偽外向型に振る舞うことがある。それは、自分が興味を持ち、価値を置く、好きな事柄に対してだ。ブライアン・リトルの議論を引いて、これはCore Personal Projectと呼ばれている。要は、没頭できる領域を見つけよう、ということだ。だがそれは簡単なことではない。それ以外の領域において外向型のように振る舞わなければならない場合は、自分を回復する場所や事柄を確保しつつ行うことが内向型人間にとって大事だとされる(自由特性協定と呼ばれている)。外にいる間は頑張って外向型のように振る舞うが、用事が終わったらとっとと帰って家で寛ぐのよいということ(p.271-282)。

外向型と内向型のどちらを重視するかは文化的な差異があり、外向型の重視は絶対的な真実ではない(p.240)。これは本書の鍵となる考えの一つだ。そのために、アメリカと中国の文化的差異が述べられている。これによると、アメリカは活動的、社交的な人間を重視し、中国は謙虚で利他的な人間を重視するという(p.236)。どうやら中国、韓国、日本を儒教圏の文化として、内向型を重視すると特徴付けているようだ。この評価に違和感を覚えるのは私だけではあるまい。アメリカ型ではないとはいえ、中国が内向型を重視する文化とはとても思えない。

本書の問題の一つは、この違和感にある。著者はあえて、外向型・内向型とは何かについて定義しようとしていない(p.345-347)。まさにそれがテーマの本なのに!これは概念的整合性がいつも気になってしまう私には歯痒いこと限りない。現代の性格心理学は、性格を主要5因子で判断する。神経症傾向(情緒不安定性)Neuroticism、外向性Extraversion、開放性Openness to Experience、調和性Agreeableness、勤勉性Conscentiousnessの5つだ。著者の言う内向型・外向型とはこの外向性で特徴付けられるのかというと、そうではない。それはこの5因子のいくつかの複合なのだ。にも関わらず、著者が引いてくる心理学的結果はこの5因子説を前提としていることもあるので、分かったようで分からない記述となってしまっている。例えば内気で声が小さく、自分を表現できないのを克服しようとする、ニー教授のセミナーの話があるが、これは内向型でなく内気の人の話である(p.244-249)。この本の拠って立つ理論的基盤は、実はとても脆弱であることに注意が必要だ。著者は学者でなくライターである。

本書は外向型人間が重視される社会において、内向型がどう自己評価していけばよいのか、大きなヒントと勇気を与えてくれる。昨今は日本でもグローバリズムの名の下、外向型人間のみを評価するような向きがある。グローバルマッチョを巡る議論などはそうした流れにあるだろう。人口の半分(アメリカで半分というが、日本だと5分の4くらいの個人的感覚)を占めるという内向型人間が、そうした流れのなかで自分を見失わないために、とても大きな問題提起をしている本だ。
内向型と外向型は互いにうんざりさせられることもあるが、ソーンの実験はたがいが相手にどんな態度をとるべきかを教えてくれる。外向型は、中身のない話を軽蔑するように思える内向型が、じつはうちとけた気楽な話ができると知るべきだ。そして、自分がまじめな話ばかりしがちなのはよくないと思っている内向型は、他人からすれば、そういう話ができる有益な存在なのだと自覚するべきだ。(p.303)
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