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トマ・ピケティ『21世紀の資本』

21世紀の資本
言うまでもない名著。資本主義は自動的に経済格差を生み出す仕組みを内包している、というテーゼを歴史的に跡付けたもの。何よりもこの本が凄いのは、ろくな統計データもないような過去のデータをなんとかひねり出しているところ。本書ではそうしたところはすべてオンライン補遺にされている。実はこのデータの揃え方にかなり恣意が入っているだろう、というのは本書に向けられる典型的な批判の一つ。

経済理論はいつも政治的になってしまうものだ。だから、議論はなるべく完全な歴史的情報源に基づかなければならない(p.3f, 11)。フランスの学者らしいところは、ここでいうデータは社会科学的なデータだということ。数学に偏執狂的な熱狂を寄せる経済学よりも、著者は社会科学のほうが好む。ただし社会科学は1970年代以降、富の分配や階級問題に関心を失ってしまった。著者の試みはこうした関心を復活させ、「政治経済学」を復権させることにある(p.34ff, 604ff)。またバルザックなどの文学作品が多く登場するのも、アメリカの経済書ではまず見かけないだろう。

経済的格差が拡がる原因は二つある。一つは政治的なもの。1940年代の戦争による資本の大規模な破壊と、戦後の復興における経済政策による格差収斂、1980年代の高所得者課税の低減や金融緩和による格差拡大がその典型例。もう一つは格差の収斂と拡大を交互に進める強力なメカニズム。後者が本書の課題だ(p.22f)。

格差の収斂を進めるのは基本的には人的資源の増強で、知識や技能の普及である。農村から都市への移動の可能性、流動性の増大でもなければ、外国からの資本投資、自由貿易でもない。教育水準の向上と知識が力を発揮できるような安定した法的枠組みによる、知識と技術の普及なのだ(p.74ff)。格差の拡大を進めるメカニズムは、本書を有名にしたもの。もちろんそれはr>gという有名な不等式で示されている、資本収益率rが経済成長率gよりも大きいということ。資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に恣意的で持続不可能な格差を生み出す(p.2)。資本は資本を再生産する。ある一定上の資本があれば、生活するに足る以上のすべてを投資できる。資本は規模の効果で常に大きくなっていく。r>gなら資本は複利の効果で格差を拡大していく(p.456f, 460)。r>gなら、資本収益率が経済成長率gに等しい分だけを再投資し、残りは消費することもできる。これが不労所得による生活が成り立つ所以だ(p.593f)。

格差の拡大がなぜ問題なのかというと、それが民主主義社会の基盤となる能力主義的な価値観を大幅に衰退させることになるからだ(p.3)。要は金持ちは金持ちであるゆえにどんどん豊かになってしまうと、他の人々がやる気を無くす。「r>gという不等式はある意味で、過去が未来を蝕む傾向を持つということだ」(p.393)。民主主義社会は能力主義的な世界観・希望に基づいている。格差は血縁やレントでなく、個々人の能力・努力によるものでなければならないのだ(p.438)。これはフランス的平等egalitéへの忠誠であり、ここにはフランスの高級官僚よろしく、民主主義と能力主義(メリトクラシー)に対する根本的な信頼が見られる。

というわけで問題は、r>gが成立するのか否か、である。我々はどうしても現在に近い時期のことを中心にして考える。だが、著者によれば20世紀は例外的にrgだったのだという。19世紀以前のデータはかなり不確かで推測の多いところ。そうしたデータに乗って有史以来、1910-2011年だけ戦争による資本破壊により、税引き後の平均資本収益率で見れば成長率を下回ったのだというのはかなり冒険的。20世紀が例外的として、2050年以降、産業革命期と同じような水準に戻ると予想する(p.368-376)。

r>gは論理的な必然ではない。例えば、資本を蓄積しても何の役にも立たない社会は想像可能だ。あるいはイノベーションが絶えず続き、経済成長率が異様に高い社会とか。r>gは例えば、時間選好では説明できない。gに従って将来の成長を待つよりも、資本をいま使ってしまったほうがよいとか。r>gは心理的、社会的要因に加え、年金など社会保障の制度、家族戦略、社会集団が自らに課す制約など、様々な要因から成立する。つまり「r>gという不等式は、絶対的な論理的必然ではなく、さまざまなメカニズムによって決まる歴史的現実として分析する必要がある。それぞれ相互にほぼ独立した力が重なりあった結果として生じたものなのだ」(p.376)。ポイントは、歴史的状況は各時代で様々であり、実に多様で異なった要因がr>gを各時代で成立させてきたにも関わらず、r>gは一貫して有史以来(って紀元前から)成立してきた歴史的現実なのだ。うーむ。

「富とそこからの所得の格差が減ったことこそ、20世紀前半に総所得格差が減少した唯一の理由」(p.350)である。有史以来の長い歴史の例外事例としての20世紀は、もちろん二度の世界大戦が原因である。ただし、1914-1945の資本所得比率の落ち込みは、戦争による資本の物理的破壊のみによるのではない。それよりも実は、戦争が財政と政治に与えた打撃のほうが大きい。日本では戦時国債がすべて紙切れになったし、ハイパーインフレが訪れた。他にも、植民地が次々に独立したことによる在外ポートフォリオの崩壊や、貯蓄率の低さ、戦後の企業の混合所有と規制などがある(p.154-157)。

戦後からの復興期も実に例外的な時期だ。どんな政策を採っていたとしても、フランス、ドイツ、日本はイギリス、アメリカに追い付いただろう(p.102-105)。とはいえ、1914-1945年に劇的に減った富の集中は、2000-2010年まで回復してきていない。この理由として、(1)まだ十分時間が経っていない、(2)20世紀の政府は資本と所得に高い税率で課税を始めた(この要因がもっとも大きい)、(3)資本収益率は長期的にわずかに低下している、(4)経済成長という4つが挙げられる。ただし成長、市場経済の本質には富の格差を減らし調和をもたらす力があると考えるのは幻想だ(p.387-391)。こうして、二つの世界大戦によって富の大幅な若返りが起こったものの、それは構造転換ではなく、傾向としては戦前の水準に戻るのだ(p.408-416)。

ただし戻り方にはそれぞれの歴史的現実がある。例えば、1970年以降のアメリカ(とイギリス、カナダ)における賃金格差(所得格差)の急拡大は、限界生産性理論や技術と教育の競合では説明できない。トップ1%の賃金が等しく増加したのではなく、トップ0.1%が急増している。いわゆるスーパー経営者の登場だ。「要するに、賃金格差が米国とイギリスで急拡大したのは、1970年以降米国とイギリスの企業が、極端に気前のいい報酬パッケージを容認するようになったからだ」(p.345f)。同じような傾向はヨーロッパと日本にもあるが、ずっと小さいものだ。これは文化の問題であって、国別にすら分かれる事象だ。

歴史的事実としてのr>gにいかに抗して、経済格差の過度な拡大を防ぐか。この点では、本書はやや悲観的だ。様々なアイデアが展開される。理想的な手法は、資本に対する世界的な累進課税である。真に世界的な課税は間違いなくユートピア的理想だが、地域や大陸単位ならできるし、すべきである(p.489f, 539f)。資本、所得に対する累進課税こそ平等をもたらし、社会国家の存続を確保するものだ。現在のトップ層の所得課税は少ない。相続での税優遇を考えればさらに少ない(p.517-519)。最適な所得税の最高税率は先進国で82%だ(p.536)。

資本に対して累進課税を行うというアイデアは納得できる。日本では給与所得を始めとする所得税には累進課税があるものの、株式譲渡益、配当金、不動産収入、固定資産税にはない。そして資本家の収益は主に、後者の不労所得からなっている。著者によれば、資本税の目的は社会国家の財源を得ることではなく、資本主義を規制することだ。その狙いは、(1)富の拡大を止めること、(2)危機の発生を避けるために金融システムに規制をかけることの二つ。税金とは規範や分類を決めることにより、経済活動に法的枠組を課す手段である(p.543-545)。

大部の本なので論点は大量にある。今後の議論の土台となる本だろう。よく売れた本のようだが、注を入れて700ページ。みんな最後まで読んだのだろうか。
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