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矢野久美子『ハンナ・アーレント』

ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)
アーレントについて書かれた実に素晴らしい解説書。激動の時代を生きて考えぬいたアーレントという人物が、何を重視し、どんな活動を行ったか分かりやすく書かれている。単純にアーレントという人物の解説を超えて、現代においていかに我々が考え、時には抗していくか考えさせられる。アーレントほど強く考えぬくことはできないとしても。

本書の特徴は、アーレントの思想そのものよりも、どんな人々と交わり、どんな事柄にどう反応したかが多く書かれていることだろう。ユダヤ教への視点をもたらせたブルーメンフェルト、戦後ドイツにおいて橋渡しとなるヤスパース、生涯支え合うことになるブリュッヒャー、ベンヤミンとの悲痛なエピソード、アメリカでの親友マッカーシーといった人物が出てくる。こうしたアーレントの解説の仕方そのものが実にアーレント的だ。『人間の条件』でアーレントは、人間の活動力を労働、仕事、活動に分けた。本書で言えば労働のレベルは、アーレントがどこで生まれ、いつどこにいて、何をして生きていたかである。仕事のレベルはもちろん著作であり、どんな思想を抱いて何を書いたかである。そして活動のレベルがどんな人と交わり、どんな議論を交わしたかである。本書はこうして、アーレントの活動に何よりも焦点を合わせている。それはアーレントがヤスパースの追悼の辞で述べた(p.211-217)ように、本の背後にいる生身の著者に触れ、著作を通して死者と会話することであろう。

主要著作の『全体主義の起源』や『人間の条件』、『イェルサレムのアイヒマン』の内容も解説される。しかし著作においても、誰かについて書かれた、誰かに捧げられた著作が解説の鍵をなしている。この点で、レッシング賞受賞講演についての解説は重要だ。アーレントはアメリカに亡命した自分が戦後、ドイツの論壇に登場すること(という形での「帰郷」)に多くのためらいを抱いていた(p.98-103, 166-168)。ユダヤ人として帰郷するのでなければ意味が無い、と。ハンブルクで行ったレッシング賞受賞講演で、アーレントはレッシングから複数の視点を持つことの重要性を抽出する(p.168-180)。一つの真理に回収されることのない、複数の見解を守ること。行動や思想の自由を保護し、多様な意見の対話を続けること。いままで世界になかった観点が生まれるという意味で、人間はいつでも新たに始めることができる。こうした活動のレベルの自由こそ、人間の自由であり、人間の尊厳をなしている(p.225f)。全体主義の中で失われたのは、この活動のレベルの自由だった。

活動の自由と並んで本書の基調となっているのが、アーレントが幼少期から抱いている理解することへの欲望、使命感である(p.18f, 223)。アーレントにとっては、世界で何が起こっているのかを理解することが何よりも重要であった。この観点は、特に政治的な地平では衝突を巻き起こすし、アーレントの言動を理解不能にした。政治的な地平では「言わないほうがいいこと」もあるからだ。『全体主義の起源』や『イェルサレムのアイヒマン』での戦時中のユダヤ人コミュニティへの評価がその一例だ。アーレントの目指すのは事実の理解であって、そうした事実を描くことで誰かを非難することではない。『全体主義の起源』は全体主義の因果的説明を試みているのではない。何かの原因を求めるより、事実を直視すること。歴史的必然ではなく、人間の行為によって別様でもありえた事態を描き、それにより今後の抵抗を可能にする(p.104-107)こと。

なぜならば、自然科学の営みに代表される「理性の真理」に対して、歴史的出来事からなる「事実の真理」ははるかに傷つきやすいから。事実の真理は人々、出来事、環境に関連しており、語られることによってのみ存在する。ある集団や国家がある事実の真理を歓迎しない時には、プロパガンダという名の嘘によって塗り替えられてしまう。この視点から、アーレントはアメリカのベトナム戦争も批判した(p.207-211)。アーレントを導くのは、こうした「事実の真理」への欲望である。

(しかしこうした事実の真理は、人間の尊厳としての活動の複数性とどう関係するのか。一つの事実へと収斂できる可能性を活動のレベルであらかじめ保証できるのだろうか。すなわち、例えばテロリストと理性的な討議が可能だろうか。自らの見解に真理を要求しながら、それにも関わらず他なる見解といかに共存するのか。事実の真理もそれ自体、およびそれを支える権力や暴力の機構の中にあって、それは全体主義を導くものと共通しないだろうか。『啓蒙の弁証法』が描いたように。事実の真理は実体的なものなのか、単純な虚焦点として確保されるのか、はたまたデリダの正義のように常に他なる可能性に開かれた内実を欠いたものなのか。)

本書は素晴らしい一冊だが、大きな問題点として、ベッティーナ・シュタングネトの『イェルサレム以前のアイヒマン』(2011年)に触れていないことがあろう。アーレントはアイヒマンを凡庸な人間として描いたが、近年シュタングネトが明らかにしたアイヒマンの姿は、それとは異なる。アイヒマンは一貫して徹底した国家社会主義者であって、凡庸な組織の歯車などではない。イェルサレムの裁判でのアイヒマンは見せかけであって、アーレントはそれをまったく見抜けなかった。もちろん紙幅の問題があろうが、事実の理解を何よりも希求したアーレントにとって、この事態がもつことの意味は多少の示唆があるべきだ。

最後に一つのパッセージを引用しておく。これは、ドイツや日本の全体主義、あるいはナショナリズムが多く民衆の圧倒的な支持によって推進されること、そして、東日本大震災後に「絆」という言葉で日本を支配した圧力が何だったのかを考え続ける上で頼りになる一節だろう。
アーレントは、複数の人びとが距離をもって共有する世界を媒介とせずに人びとが直接に結びつく同胞愛や親交の温かさのなかでは、人びとは論争を避け、可能なかぎり対立を避けると語る。彼女はこうした同胞愛や温かさが不必要だと言っているのではない。それが政治的領域を支配してしまうとき、複数の視点から見るという世界の特徴が失われ、奇妙な非現実性が生まれると言うのである。複数の視点が存在する領域の外部にある真理は、善いものであろうと悪いものであろうと、非人間的なものだ、と彼女は言い切る。なぜなら、それは突如として人間を一枚岩の単一の意見にまとめ、単数の人間、一つの種族だけが地上に住むかのような事態を生じされる恐れがあるからである。(p.179f)
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