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マイケル・ガザニガ『<わたし>はどこにあるのか』

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義
認知神経科学者のギルフォード講義。一般向け講義を基にしていることもあり、かなり分かりやすい。豊富な実験の実例、心の哲学など他の分野への目配せなど、レベルの高い一冊。テーマは認知神経科学から見る、自我の問題。現在の脳神経科学からして、自我という概念はどのように位置づけられるのか。そして自我に必然的に付随していくる、責任の概念についてどう考えればよいか。原題は"Who's in Charge? Free Will and the Science of the Brain"で、「責任者は誰か?自由意志と脳科学」。責任概念を巡る一冊であり、邦題ではそれが分からない。

著者が最初に研究を始めたのが脳梁切断の事例であり、それが本書には多く出てくる。左脳と右脳をつなぐ脳梁の切断は当時、癲癇に対する最終治療法されていた。脳梁を切断すると左脳と右脳でそれぞれお互いがやっていることの連絡がつかなくなる。すると奇妙な事例がいくつも出てくる。右脳に対して左から提示された画像を、左脳は何であるか理解できない。しかし右脳は例えば情動反応を起こす。面白いのはここからで、すると左脳は自分のあずかり知らぬ右脳の反応に対して、適当な説明を編み出す。それは無理矢理で奇妙な説明になる。この事例はラマチャンドランの本のほうが豊富だ。つまり左脳の役割の一つにインタープリターがある。それは混沌のなかに秩序を見いだし、すべてをストーリーに織り込み、文脈に当てはめようとする人間ならではの傾向だ(p.106-112)。

人間の脳は結果を合理的に解釈し、自我の統一性を保とうとする。意識そのものは様々なモジュールが並行して動くなかにある(ちなみに並行して動くモジュールが中央制御もなくどうやって機能するのかについては、「複雑系だから」(p.92-94)とされていてあまり説明になっていない)。脳にはありとあらゆる局在的な意識システムが存在しており、意識はそれらの組み合わせから生まれる(p.86)。心理的統一性はインタープリターから生じる経験なのである。ポイントは、このインタープリターはあくまで結果に対して事後的に合理的・統一的な解釈を与えているだけだということだ(p.127f)。私たちは通常、自分が意志をもっていると感じている。しかしそれは幻影である。ベンジャミン・リベットとチュン・シオン・スーンによる、本人が意識的に決断する数秒前に準備電位があるという結果は何ども引用される。
インタープリターは、ずっと私たちを陥れてきた。自己という幻影をこしらえ、私たち人間は動作主体であり、自分の行動を「自由に」決定できるという感覚を吹きこんだ。(p.132)


遅れてくる意識について、説得的な事例が一つ。指先で鼻に触れると、指と鼻に同時に感覚を覚える。しかし鼻の感覚を脳に伝えるニューロンは長さ8cmほど、一方、手の感覚を脳に伝えるニューロンは1mくらいある。したがって、この二種類の新郷が脳に到達するのには250~500msほどの差がある。この時間差は人間が容易に検知できる時間差である。にも関わらず、意識的経験としては同時なのである。それは各感覚器官から受け取った情報を、インタープリターとしての脳が(おそらくどちらも自分の身体の情報であるから)同時として事後的に解釈した結果だ(p.159f)。

動作主体としての意識や自我を幻影としつつも、著者は単純な決定論(物理主義)に陥ることはない。例えば、現時点では脳スキャンの画像を裁判の証拠にすべきではない(p.248-251)。脳の活動の違いから意識や自我の違いを導き出せるわけではない。ここで「創発」という概念が聞いてくる。意識はニューロンの活動を基盤としつつ、そこから創発する概念であるとされる。創発(そのうち、強い創発)とは、部分を総和した結果生じる性質が部分の説明に還元できない事象を示す。著者が何度か取り上げるのは量子力学とニュートン力学の例。物体は原子で構成されていて、それぞれは量子力学により説明される。しかし微視的な原子が集まって大きな物体を構成すると、新たな振る舞いが創発し、これはニュートン力学により説明される。「原子のふるまいを観察してもニュートンの法則は予測できないし、ニュートンの法則から原子のふるまいを予測することもできない。先駆状態には存在しなかった新しい性質が出現するのだから」(p.157)。意識という精神状態が創発であると主張するは、「ちょうどソフトウェアとハードウェアの関係のように、精神は脳に完全に依存すると同時に、脳からは独立した性質であることを現実として、あるいは抽象概念として認めるだけである。」(p.163)。随伴主義に近い考えだろうか。

したがって動作主体としての意識が幻影だとしても価値を減じる必要はない。意志の発する10秒前に準備電位が起こっていてもそれがどうしたのか。意識はそれ専用のタイムスケールを持つ独自の作用であり、意識にとっては意志の発する時点が現在なのである(p.176f)。 行為は意志の選択ではなく、脳が複雑な環境の中で選んだ創発的な精神状態の結果である(p.177)。

とはいえ、ここで問題になるのが責任や自由といった概念である。もし動作主体としての意識が幻影なのだとしたら、責任という概念には何か修正が必要なのか。著者の基本的なコンセプトは、責任感や自由が生じるのは脳の中でなく、社会的なやりとり、つまり脳と脳の間の空間だというものだ(p.170f)。責任とは社会的に培われてきた概念であり、強いてはそれがゲノムレベルにも影響を与えてきた。何度もヘアとトマセロの情動反応仮説が引かれる。社会集団が個人の行動に制限をかけ、ついにはそうした行動への情動反応を制御する選択システムがゲノムレベルで変化してきた(p.191-199, 233-234)。別にこれはラマルク主義ではない。人間は、反社会的で責任感のない人間をコミュニティから追放し、あるいは殺害してきた。また、そうした人間は他人に認められず、結婚することができなかった。こうした自然淘汰や性淘汰により、責任感ある人間が残ってきたのだ。それは例えば東洋人と西洋人の思考様式の違いに影響を与えている5-HTRIA遺伝子のようなものにも結実する。それぞれの環境から要請される思考様式の違いが、ゲノムレベルに反映される(p.230-234)。

ただ、責任概念を巡る後半の(そしてメインの)議論はよく分からない。自分の関心の違いにもよるのだろう。
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