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吉川浩満『理不尽な進化」

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ
進化論についての本、というより進化論の思想、進化論の哲学についての本。論述は生物の絶滅に関するD.ラウプの3つの区分から始まる。古生物学の研究から、現在生存している生物種はかつて存在した種の1000分の1程度だと考えられている(p.36f)。こうした種の絶滅原因をラウプは3種類に分類した。それは(1)弾幕の戦場、(2)公正なゲーム、(3)理不尽な絶滅と名付けられている。弾幕の戦場とは隕石の衝突や火山の噴火などにより、どんな生物種にも等しく過酷な条件が課せられるものだ。これはその場その時点に居合わせた生物にとってはまさに運が悪いとしか言いようが無い。公正なゲームは環境に適応している生物が生き残る、遺伝子による生存競争である。そして理不尽な絶滅とは、運でも遺伝子でもなく、生存競争の舞台条件が突然変わってしまい、それまで有利だった生物種が不利に転じることだ。理不尽な絶滅のような特定種の絶滅は、後継者たちに進化のイノベーションのための場所を与える意味がある。恐竜が一斉に滅んだからこそ、哺乳類に爆発的な進化が可能になったのだ(p.78-80)。これは戦争で上の世代がいなくなったがゆえに自由なイノベーションが可能になった、戦後の日本のような状況だろう。
理不尽な絶滅は弾幕の戦場に似てはいるが、区別すべきものだ。弾幕の戦場は生物種に無差別に等しく適用される。理不尽な絶滅では、何が生存上有利であるかの条件ががらっと変わるものだ。ゲームの勝利(=生存)の定義が変わってしまう。この意味で、理不尽な絶滅はそれまでの有利な適用条件をすべて無にしてしまう苛酷さを持っている(p.53-62)。

さて本書は、理不尽な絶滅の実例や、運や遺伝子を要因とする絶滅と混同されがちな理不尽な絶滅がどのように考えられてきたのか、生物学の論考を辿る、というわけではない。少なくとも私はそう期待していたのだが違った。本書の内容は学問としての進化論(以下、進化学とする)とは区別される、日常語法としての進化論(以下、日常物理学にならって日常進化論とする)と、スティーブン・グールドの適応主義論争を巡っている。どうやら私は著者と問題意識を共有していないらしく、書いてあることは理解しつつもなぜそれが問題なのか、いまひとつピンと来ないことが多発する本だった。

理不尽な絶滅について問題を提起した次の第二章は、日常進化論を巡っている。進化学の用語は現在、容易に日常に転化されている。企業のDNAとかマーケットにおける生存競争とかいったキャッチコピー、進化ポエムだ。適者生存Survival of the fittestという言葉もおなじみである。著者は進化学と日常進化論の差異を探りながら、日常進化論の内実を明らかにしようとする。おそらくポイントは二つで、ラマルク主義と「言葉のお守り的用法」である。もともと進化論が日常に流布したのはスペンサーの功績が大きい。そしてそのスペンサーの進化論はダーウィニズムというよりラマルク主義(生物が獲得した形質が遺伝するという考え)である。しかもこの進化は進歩・向上として捉えられている。「私たちが日ごろ出会う進化論はラマルク=スペンサー路線まっしぐら」(p.169)なのだ。
一方、「言葉のお守り的用法」として著者は、鶴見俊輔の論考を引く。それは太平洋戦争後になって、戦時の言説に対して鶴見が批判を加えたものだ。戦時中の「国体」「鬼畜米英」といった言葉は、何かを表現しているというより、絶対的に正しい文言として反対意見を封じ込める主張を行う役割(敵をはねつけるお守り的役割)を果たした。鶴見は、言語使用には表現的役割の他にこうした主張的役割があるとした。著者はこの主張的役割を引いてくる(p.107-114)。そして「適者生存」というトートロジカルな言明は、トートロジカルであるからこそいつでも正しいものとして主張できるお守りとして使われているとしている。日常進化論は、そうしたお守り、絶対的に正しいことを主張したいときのタームとして使われていると。これらは「対象を是認したり否認したりする当人の「生活感情の表現」に進化論の言葉をかぶせているだけであり、実際には進化論や進化現象と関係ないどころか、学問=科学とも関係ないのである」(p.409)。
こうした日常進化論は、著者によると価値の無いものではない。学問としての進化論と世界像としての進化論はどちらかが正しいものではなく、分業体制なのだ(p.179-181)。どちらも社会において使われ、役割を果たしているのだ。
私にはどうもこの日常進化論の章そのものの存在意義がよく分からない。まず日常進化論に独立した位置を与えたいのであれば、鶴見俊輔の「お守り的用法」を引いてくるのは戦略ミスではないか。鶴見の論考はあまりにも戦前の空気に対する非難の調子を含んでいる。言葉が表現的ではなくパフォーマティブに使われるのはいくらでもある事例であって、もっとよい論じ方があると思う。さらに特に論理的な整合性も気にせず転用されるこうした日常事例を擁護する意図が不明である。「適者生存」がトートロジカルであることがあまり理解されず、その理解が問題だと著者はしているのだが、私はこれをあまり問題に思っていないので熱の入れようがまったく空回りしているように見える。

第三章、終章はグールドの適応主義批判を巡る。グールドに対してはドーキンスとデネットをメインに取り上げるだけで、そんなに論争の専門的なところに突っ込んでいる感はない。グールドは、生物が獲得した形質はすべて環境に対する何らかの適応の結果だと考える適応主義には問題があると主張した。進化の歴史には様々な環境制約や偶然などがあり、その中で進化してきた生物の形質をすべて自然淘汰の結果と見る訳にはいかないと(p.195)。この論争は結局、適応主義主義側の勝利に終わる。適応主義は真理というよりも、進化学の方法論なのだ。どんな環境制約があったのかを論じるためにも、制約とは要するに適応しようとしたができなかったことなのだから、適応主義的アプローチが必要だ。 ダーウィンの革命性は自然淘汰を生物進化におけるアルゴリズムであると見たことだった。進化学はそのアルゴリズムを解読しようとするリバース・エンジニアリングである。このリバース・エンジニアリングをヒューリスティックに導く原理こそ、適応主義なのである(p.237-251)。ちなみに進化現象はアルゴリズムそのものだから、対象を生物に限る必要はない。生物以外の進化学としては、ミームはまさにその例だ。

かくしてグールドの適応主義批判は敗退した。著者はこのグールドの敗退から、独自の見解を取り出していく。グールドが敗退した必然的な原因を探り、それを別の形で活かそうとしている。ここが私にはもっとも納得のいかない箇所となった。
グールドの適応主義批判の根本がどこにあるかというと、現在的有用性に対する歴史的起源の独立性である。いま有用であり生存に有利となっている形質が、そのことゆえに歴史的に残ってきたのだとは限らない。もちろん有利であるがゆえに残ってきた歴史もあろう(そちらのほうが多いだろう)。だがこうした機能主義的な歴史はあくまでも一部でしかない。適応主義はその一部でしかない歴史をすべてだと僭称して、適応主義は歴史を系統的に貧困化しているのだ(p.279-297)。機能主義的な歴史がすべてだと言うことは、ヒューリスティックな方法論にすぎない仮説の適応主義を、自然はそもそもそういうものだとして形而上学とすることだ(p.323f)。グールドがどうしても批判したかったのは、この形而上学的転用であった。

ここから著者はグールドの失敗を位置づけるために「説明と理解」という解釈学的図式を持ち出す。ディルタイ、ハイデガー、ガダマー、ベンヤミン、前期ウィトゲンシュタインなどが動員される。これは19世紀に科学的方法論が圧倒的な成功を収めはじめた時、ざっくり言うとすべては科学的で説明可能だとした実証主義に対して、科学的方法論がすべてに適用可能なわけではないとして人文学者側から出されたものだ。科学はその方法論で我々の経験を「説明」しようとするが、その方法論には限界があり、説明ではなく「理解」するしかないものがあるのだ。そして、歴史は説明ではなく理解が必要な最たるものである(他には芸術など)。歴史は経験的・科学の積み重ねによっては解決せず、哲学的・形而上学的・神学的な問題であり、そもそも科学のテーマではない。別様でもありえた、偶発性contingencyに満ちた歴史をどう理解するかはまさに「理解」の問題なのだ(p.309f)。
とはいえグールドはあくまで科学者であろうとした。それゆえ、本来は「理解」によってのみ可能な歴史の問題を、「説明」である科学のフィールドに持ち込んで適応主義批判を行ったのだ。これはカテゴリー・ミステイクである(p.302-305)。グールドは「あくまで実証主義を奉じる科学者であり、歴史を自然科学にたいする防衛戦や聖域として扱う反科学的蒙昧主義に与することはできないからだ。これは苦しい二正面戦略である。このジレンマのせいでグールドは自滅してしまった、というのが私の考えである」(p.339)。

こうした説明と理解の区別、またその発展形である方法と真理の区別はよくあるものだ。そしてその混同による擬似問題の発生もよく見られる。適応主義に対するグールドの反抗は、こうした回帰する疑似問題のフォーマットに乗ったものだ。グールドが適応主義に対抗して語ろうとした偶発性は科学の言葉ではない。偶発性に満ちた進化の歴史は世界経験としての真理に関わるものであり、我々がそうした一回きりの歴史をどう理解するかが問題なのだ。
そして著者はここに理不尽な絶滅の理不尽さを持ってくる。グールドは適応主義に向けた偶発性の批判を、理不尽さとして語るべきだったのだ(p.364)。理不尽さは科学が説明するものではない(p.371f)。強引に科学的に語ろうとしたからこそ、グールドの方法論は「偽りの詩」としてドーキンスに批判された(p.375)。偽りでない、詩そのものを語ればよかったのだ。それは進化学や進化の歴史に対して、それが人間であることに何の関係があるのか、と問う人文主義者の伝統である。
適用主義をめぐる論争は、グールドのいう偶発性が非方法的な「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という人間的感覚にすぎなかったことを教える。しかし、それにたいする彼の固執--理不尽にたいする態度ーーは、私たちが知的世界へ入っていく際のアクセスポイントは、そうした人間的感覚にほかならないということもまた教える。それは、「この世界に内在しつつ、世界に関わっている者」である私たちが、そういう者として「世界がどうであるか」を語る際の根本的条件なのである。(p.416)


こうした論じ方を見て、私にはグールドの折角の利点が台無しになった悲しい思いを抱いた。グールドの論点は、「説明と理解」という硬直した人文主義の二項対立に嵌めこまれ押し込められたように見える(それを「方法と真理」としてアップグレードしても変わらない)。あくまでその間を縫っていこうとしたのがグールドである。その試みを放棄して、科学的方法論とは峻別された世界にグールドを回収してしまうのは正当な評価なのか?いかに人文主義が提起する問題が現在においては「人間的要素の除去によって成り立つ知識と、人間的要素そのものとのあいだの往復運動にある」(p.408)としても、それは反科学的蒙昧主義を本当に免れているのか?
まだまだ進化学のなかでやるべきことがあり、そこにグールドの批判が活かされるべきだ。科学から区別された人文主義者たちの飯のタネに回収してしまってどうするのだ。諦めるのが早すぎる。「理不尽な進化」と「理不尽」として捉えた議論の出発点が、そもそも人文主義者の企み、陰謀の中にある。それは単に確率事象として起こったのであって、それを理不尽として捉えるかどうかは捉えるものの勝手である(私には著者の感じる進化の過程での「理不尽さ」がまったく共感できない)。理不尽かどうかは別として、単なる事実そのものとして扱う手立てが科学には無いのか?いや、科学というより事実を扱う我々の知的枠組には無いのだろうか?
著者は偶発性の概念の中身は空っぽでなければならないと語る。「偶発性に特有の因果的作用など見つけることができないという点こそ、この概念にとって本質的なことだから」(p.340)、実質的な内容を与えてはならないのだと。だが例えば確率の概念の使用は、こうした偶発性に対して実質を与える科学的方法である。本書は進化論の本なのに、確率に対する考察がほとんど無くことがとても気になる。適応主義にどう確率を組み込んでいくのか。遺伝子浮動の話はなぜ本書にまったく出てこないのか??

また、グールドを位置づける著者のこの戦略はベルクソンの『創造的進化』と似通っているように私には見える。理不尽な進化とl'elan vitalは適用場面が違うけれども、科学的方法論から区別された概念領域を進化論において構築しようとする試みは同じだ。本書に一切出てこないのはかなり謎だ。

「理不尽な進化」を前にして、科学者は何も言えないのだろうか?「語りえぬものについては沈黙しなければならない」のだろうか?答えは絶対に否、である。進化学の限界はこんなところにはない。
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