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信原幸弘編『シリーズ心の哲学 I 人間篇』


とても良い本。現代の心の哲学の主要トピックを論じた各論文からなる。それぞれは著者自体の立場を問わず、主に物理主義の観点から書かれている。基本的には議論状況の優秀なサーベイ集。トピックは心的因果、志向性、クオリア、素朴心理学、自己知。それぞれがよくある誤解や典型的な反論を丹念に扱いながら、中心的な議論を扱っていく。

物理主義は心の哲学のトピックに対するものとしては無理のある議論も多い印象。もちろん現代の科学的な世界像としては基本的姿勢になるものだが、なぜ物理主義が前面に出てくるのかは疑問に思っていた。この点に関しては、物理主義が真である可能性が高いとも言えないが、存在論の研究プログラムとしては意義が高いとされている。まず、他に有力な選択肢が無い。いまさらデカルト流の二元論を額面通り採るわけにもいかないだろう。さらに物理主義は戦略が明快である。世界は基本的には物質とその物理的原理だけから成り立っている、という物理主義の作業仮説は(他のアプローチに比べて)明快である。たとえ物理主義が間違っていたとしても、どこで間違えているのかについて学ぶことは多いだろう。この二点から物理主義を中心的に検討することには意義がある(p.31f)。これにはかなり納得することができた。

心的因果の章ではJ.キムの見解を中心としながら、心的因果について現在では大勢を占めるスーパーヴィーニエンス説について検討していく。心的性質の実在性とそれを実現する物質的基盤の関係では、多重実現可能性が大きな問題となってくると論じられる。多重実現可能性は、同じ心的性質を実現する物理的状態が複数ありうるというものだ。最終的に扱われるキムの議論は興味深く、それは多重実現可能性を踏まえてなお物理的状態への還元主義を取るために、心的性質の実在性を否定して、心的述語ないし概念のみが存在すると主張するものだ(p.54-63)。心的概念はそれぞれのコンテクトに応じて、異なる物理的性質を指示することになる。一つの自然種としての心的状態タイプがあるのではなく、多数の物理的状態タイプをある仕方でまとめ上げる概念が存在する。性質と概念の実在性についての違いがいまひとつピンと来ないが、それなりに妥当な見解である印象を持った。ただし、クオリアについてはこの見解でも難しい(p.64f)。クオリアが心的性質として残るならば、実は心的性質が物理的性質にスーパーヴィーンするというそれ自体は物理主義的ではない事実が還元不能なものとして残る(p.63, 68)。スーパーヴィーンするという事実は物理的事実ではないという論点は面白い。

志向性の章では超難解で知られるミリカンの見解をサーベイしており、これ自体、相当な力量だ。私には進化論を使った、志向性の目的論的還元の話のポイントがいつも不明だった。何が不明なのかくらいはこの章で多少見ることができた。違和感の大きな原因は、ミリカンのやっていることが概念分析ではないというところにあるだろう。ミリカンのやっている定義は、我々の実践を記述することではない。だから例えば機能概念の説明が日常的な直観に適合するかは問題ではなく、ただ説明しようとする事物に適合するかが問題なのだ(p.100f)。そして、目的論的機能主義では結局、生物のある器官にとって何が機能なのかは歴史および起源によって決まるとされる。ある能力は、進化においてその器官の存続において歴史的に寄与してきたのであれば、その器官の機能であるとされる(p.102-105)。そしてある器官がその機能を果たしていなければ、その器官は「異常」なのだ。話自体はよく分かるのだが、自然選択のみで成り立っているわけでもない、偶然性の極めて高い進化の歴史における存続で機能を決定するのは問題が多すぎるし、そこから規範性を持ってくるなら、典型的な自然主義的誤謬に見えてしまう。歴史的に存続に寄与してきたからといって、なぜ存続に寄与「しなければならない」のだろう。確かに、振る舞いを目的論的に理解することと、規範性の形而上学的基礎は独立の問題のはずである(p.114f)。

クオリアの章もとても明快。実はクオリアの議論をめぐっては、より大きな議論の枠組が示唆されている。クオリアをすべて欠いたゾンビの思考可能性は、そもそも思考可能性が形而上学的可能性を導くか、概念分析とは何を明らかにすることなのかの一般論を背景としている。これは極めて重要な議論で、それだけで扱われるべき重大なテーマだ。クオリアの議論でもう一つ出てくるのは知識論法で、これはクオリアを獲得することは命題的知識とは違う何かだという話。物理主義の立場からは、クオリアを得ることは非言語的知識を得ることとされる(p.163-166)。これには妙に納得した。そもそもクオリアの逆転やゾンビが思考可能だと思えない私には、これでクオリア問題の大筋は解消してしまった。

素朴心理学の章はやや錯綜した印象を受ける。素朴心理学と科学理論がいかなる関係にあるのかは、おそらくもっと大きな話なのだろう。科学理論とそうでない理論とは何なのか(科学理論以外の理論がありえるのか)、また理論でないとしたら素朴心理学でわれわれは何をしているのかについてのもっと広範な議論が必要だ。いみじくも解釈学に少しだけ言及されている(p.216)ように、説明と理解(なのか真理と方法なのかはともかく)は一つの枠組となりうる。著者自体は自然科学は出来事の制御を眼目とし、素朴心理学は心的状態や行為の秩序付けを眼目としているとしている(p.208-212)が、これにはあまり納得しない。自然科学を工学的に捉えすぎていると感じるし、素朴心理学も相手を理解し、それによって制御しようという試みにある。

自己知の章はバージをめぐって、信念内容の外在主義と自己知が持つ一人称特権がどう調和するのかを論じている。ここは自己知についての問題意識が私自身に無いので、さほど面白いと思うものではなかった。信念内容が外的世界を入れないと個別化・確定できないとしても、外的世界を参照しない信念については外在主義的に問題とならなそうな印象を持つ。自己知は論理的真理とまではいかないが、形式的に確実なものだろう。とはいえ、ここで扱われているコギト的な真理はみな内容を伴っている(p.253-255)のだが、欺く神や狂気のコギトの設定は無いのだろうか。デカルトの懐疑では、「私はいま物理的対象が存在すると考えている」というのは明証的ではなくて、この信念内容の把握は間違っているかもしれない。信念内容が何であるかは分からないとしても、とにかく私はいま何かを考えているという空虚なコギトこそ明証性の確保できるものだったのでは。
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