Entries

松尾豊編『人工知能とは』


人工知能学会に連載されていたものの書籍化。日本の人工知能研究を牽引してきた専門家たちが、改めて人工知能とは何かを語っている。人工知能研究と言ってもアプローチは様々で、自然言語に定位したもの、ロボット、オントロジー工学、環境とのインタラクションなど。問いの立て方が人工知能というものを正面から見据えている。例えば機械学習の話はほとんど出てこない。そうした点では概念的な話が続き、あまり面白くはない。

13名もの寄稿なので見解が一致しているわけではない。例えば人工知能にとって身体が必要なのか、環境とのインタラクションが必要なのかについては意見が分かれている。環境との相互作用は知能に本質的ではないという見解がある一方(p.53-55)で、身体性が可能とするシンボルグラウンディグがなければ知能ではない(p.103)とするものもある。知識がエキスパートシステムくらいで人工知能研究にうまく取り込めていないのは、社会性を考慮しなかった結果であり、知識は外在化した知能だという話もある(p.160-164)。

全体で一致するのは、人工知能とは何かという問いに答えは出ない、むしろ人工知能研究は現時点で答えを出さないという認識だ。人工知能とは何かという問いは問うに値しないという見解まである(p.64-67)。人工知能はなによりも工学的である。人工知能は人工知能を構築する結果として解明される構成的概念なのである(p.185f)。要は、「作ってみなければ分からない」という考えで、創った時にみんなが人工知能と思えるものができれば、その時に人工知能とは何かが分かる。これは哲学と対比をなす。哲学は人間を取り巻く世界を思弁的に解明しようとするが、人工知能研究は構成的に世界に取り組むのだ(p.95)。

もう一つ一致しているのは、知能とは環境や世界などに適応する能力だということだろう(p.234)。知能とは既存の知識など情報を元に、課題によりうまく適応する行為を導き出す能力になる。一方で、心や意識とは自己や外界の状態を認識する能力であり、ここに心と知能の違いがある(p.22f)。ただこうした概念はもちろん変わっていく。機械が考えられるかという問うことは、潜水艦が泳げるかという問うことに似ているというダイクストラの言葉が的を射ている(p.14f)。FacebookのLeCun氏がこの間、飛行機は羽ばたきはしないがそれでも鳥を模して作られていると言って、機械の知性(Machine Intelligence)と人間の知性を比較していたのに似ている。

多くのアイデアが書かれていて、例えばロボットではなくて自律型キャラクターのようなメディア立脚型自律知能(ボット)を作ろうという話(p.37-41)や、ウェブは人工生命の生まれる化学スープだという話(ただし人工生命の話はよく分からない)(p.179)など。またシンギュラリティについては、以下の話が示唆的(p.30f)。スーパー知能は人間を滅ぼすというよりは、人間が他の動物を人間を傷つけない限りで管理しているように、スーパー知能は人間を滅ぼすより飼い殺すだろう。それはヒューマニティーを損なう結果になる。

自分はあまり人工知能に興味が無いことはよく分かった。汎用的知能よりも、場面ごとに最適な様々の学習アルゴリズムを読んでいる方が楽しい。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/818-ddc60464

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する