Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/820-0af834eb

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

信原幸弘編『シリーズ心の哲学 II ロボット篇』


なぜロボット篇という副題になっているのかはよく分からない。本巻は認知とは何かをめぐって書かれた5つの論文からなっている。古典的計算主義、コネクショニズム、力学系といった有名な立場を論じたもの。フレーム問題にフォーカスしたもの。そして、認知は認知主体だけでなく環境を含んで行われるという立場に基づく二つの論文。ロボット篇としているのは古典的計算主義から話が始まっていることと、フレーム問題を扱っていることによるかもしれない。

まず最初にある戸田山氏の古典的計算主義とコネクショニズムの論文は、サーベイとしてまとまっている。だがコネクショニズムがニューラルネットワークの数学的モデルに基づいた話なので、どうしても最初から難しい話となってしまう。なかなか記述には苦労している感が出ている。ポイントは、デビット・マーの定式化した認知過程を記述する3つのレベルの理解の仕方にある。それらは計算論的レベル、アルゴリズムレベル、実装レベルである。注意しなければならないのは、これらが相対的なレベル分けであることを理解すること。特に、実装レベルを物理的な実現のレベルと勘違いしないことだ(p.32f, 44f)。古典的計算主義とコネクショニズムの違いは、統語論的構造を持つ(つまり単なる外界の像ではない;p.134)思考の言語と、ニューラルネットワークによって果たされる分散表象の違いとして論じられる。

力学系は新しい発想でなかなか面白い。確かに環境とカップリングして環境の状態を反映しているだけなら、表象はいらない。しかし認知における表象は、まさに環境とデカップリングされた状況において本質的に必要になる。現物がない状況で思考したりするからこそ持ちだされる。これは表象渇望問題(representation-hungry problem)と呼ばれている。それに対して出されている、エミュレータとしての説明が説得力を感じなかった。例えば物に手を伸ばす時は、脳内でどの方向にどのくらい伸ばしたらどうなるかをエミュレーションしているという。たぶんそんなことはしていなくて、物に対してベクトルを引いてそれに沿っているのだと思う。そもそもエミュレートするようなニューロン群も見つかっていない(p.100-109)。力学系の論者の威勢の良さからは退いてしまうが、認知の形態によって複数のシステムが使われることはまったく不思議ではない。反射に近い認知では力学系の説明も効くが、思考などになるとまったく説得力がない。

フレーム問題については、コネクショニズムにとってのフレーム問題が、現実的な問題へのスケールアップの問題、各問題に適した様々なニューラルネットワークを統合する問題、さらには異質な情報を同時に用いる異種情報統合問題として現れるという論点(p.159-163)。さらに、感情が関連情報だけを囲い込むような情報閉鎖(informational encapsulation)を行いフレーム問題を解決するかもしれないという論点(p.163-169)には納得する。ルドゥーを思い出すような考えだが、むしろカーネマンのシステム1のほうがフレーム問題には役に立つかも。

環境との相互作用で認知は成立しているという二つの論文は、それまでの論文とやや趣が違う。他の3論文は、現状の論争状況を整理するという役目があったが、後半の二つはむしろ独自の見解を自由に展開している。例えば道具についての分析はなかなか説得的だった。道具を使うことによって我々がしていることは、認知能力を増幅させるというよりも、課題となる問題を解きやすい形に変換しているということだ。例えば遠くに声を伝えるという問題は、マイクロフォンによってその道具の使い方という問題に変換されている。また道具でなくとも、単純に見やすい位置に移動するというのも認識的行為によって課題を変換していると捉えることができる(p.183-190)。認知活動とはこうして、皮膚によって境界付けられた個人ではなく、複数の個人、道具、メディアを含んで行われる。認知を行う単位とは、こうした大きな範囲をカバーするシステム全体である(p.204-208)。

個人の心の働きも、道具や身体を含めたもっと大きなシステムの中の一部分である。それらの境界ははっきりと引けるものではない(p.234f)。また習慣は心と環境を交換することであるという考えも気に入った(p.238f)。確かに習慣が着いてしまえば、心でいちいち考えることなく行動が行われる。それはまさに習慣づいた環境にいることによって、心による認知が代替されている。

総じてだいぶ難しい本だ。また、議論の古さを感じる。コネクショニズムの話など、昨今の深層学習の話を入れたらどうなるだろう。そういえばPDPモデルで引かれるRumelhart論文の共著者にはあのG.Hintonがいる(p.83)。例えば、アルゴリズムを汎用的に学習するNeural Turing Machineは、古典的計算主義とコネクショニズムの違いに一石を投じるだろう。フレーム問題で出てくる異種情報統合問題はマルチモーダルとしてよく議論されている。深層学習の他には、カーネマンのシステム1とシステム2の話など、認知哲学には大きな影響を与えるだろう。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/820-0af834eb

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。