Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/829-5edd289f

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』


トマス・アクィナスの感情論を扱ったもの。トマス・アクィナスというと、スコラ哲学の集大成、大伽藍。微に入り細に入り論じられる存在論と神学が有名。素人目にはともするとその非常に細かい区分や議論の仕方が馴染めず、ポイントを感じられないことも多い。

本書では感情論という、存在論に比べればずっと身近な話題を扱う。それによってトマス・アクィナス、ひいてはスコラ哲学の展開の仕方を平易に表す。のみならず、トマス・アクィナスの感情論から世界に対する根源的肯定というテーマを抽出し、「これまでの多くのトマス解釈でも、その部分的な構成要素としてときに言及されていたトマス哲学の肯定的な視座を、本書では、単なる一構成要素ではなく、中核的な構成要素として読みなおすことを試みる」(p.iiif)。さらにはそのことにより、他人と協働して生きる我々の様を明らかにし、より肯定的な方向へ導こうとする生の技法を取り出そうとしている。

ここでいう肯定の哲学とは、例えばポジティブ・シンキングのような通俗的心理学の発想ではない。そうしたものは、肯定的な面を過度に強調した主観的な発想だ。トマスの肯定の哲学のポイントは、人間本性の肯定的な側面と並んで否定的な側面も幅広く包み込む発想にある(p.10)。扱われる感情は、「愛と憎しみ」「欲望と忌避」「喜びと悲しみ」という対で提示される「欲望的な感情passio concupiscibilis」と、何らかの困難な状況に直面した際に現れる「気概的な感情passio irascibilis」の「希望と絶望」「恐れと大胆」「怒り」という感情(怒りだけ対ではない)。

トマスの感情論において一番のポイントは、肯定的感情が優位にあること。すなわち、否定的感情は肯定的感情を前提とする(p.19)。例えば何かを憎むことは、別に愛している何かがあって、それが実現されていないなどの不適合の状態があるからこそ生まれる感情だ。

しかし著者が取り出してくるトマス感情論の面白いポイントは肯定的感情の優位性ではない。面白いのは、人間の感情はたとえ否定的感情であっても、肯定的な方向へ向かっているという根源的肯定性のテーマだ。悲しみという否定的感情は、まさに悲しむべきときに悲しむことにより、状況に適合する。そして、この適合していることが喜びを生むと主張される。「生まれてきた否定的な感情から眼を逸らすことなく直面し、それを通してその環状を生む原因となった否定的な現実に対しても心を開いて直面すること自体のなかに、否定的な感情を抱えながらもそれに打ち負かし尽くされない肯定的な精神の力が発現してくる」(p.27)のだ。とはいえこれは、否定的な感情における根源的肯定性というよりは、否定的な自体に向き合うという意志の問題に見える。否定的な感情そのものが意志を導くかどうかが論点とされるべきだろう。

否定的感情を抱くべきときにまさに否定的感情を抱くことが、人間にとって適切なことである。このテーマはキリストが悲しみや怒りを抱くことがあるか、という論点を背景にしている。福音書にはキリストが悲しんだり怒ったりする場面が多く登場するし、ゲッセマネの祈りにおいては苦痛からの解放をキリストが神に祈る。しかしキリストが神の子であったならば、そうした否定的感情を抱くことはふさわしいのだろうか。それはキリストが人間であり、かつ、人間の本性からして否定的感情に適切な位置が認められるからだ。トマスはキリストの感情を分析することにより、「神の意志とは異なる心の動きも自然で善いものとして残存させている人間の在り方の全体を肯定的に把捉するモデル」(p.201)を提示している。

キリストが普通の人間と違うとすれば、こうした否定的感情に振り回されないことだ。否定的感情に振り回される、短期的利益を求める「本性としての意志」に対し、目的手段連関を見通した上で長期的利益を求める「理性的な意志」が区別される(p.181-184, 187f)。理性的な意志は単に一時の感情をコントロールしたり、普遍的・抽象的な概念の認識ではない。長期的な視座のもとで新たな欲求を世界に見出す能力だ。カーネマンのシステム1とシステム2のような区別だ。この理性的な意志がもつ「柔軟な状況対応能力こそが、理性的存在である人間の有している真の卓越性なのであり、キリストはそうした卓越性を最高度に実現させていた」(p.205)のだ。したがって、否定的感情の根源的肯定性よりは、やはり理性的意志のもつ長期的利益を見越した肯定性が鍵となるように見える。

感情論に戻れば、愛こそすべての感情の原因とされる。それは、何かに価値を置き、愛しているからこそ他の感情が生じてくるからだ(p.118f, 224-230)。本書の大きな問題はここにある。それは、愛の対象である「善さbonum」を広範に拡張していることだ。本書で言われる「善さ」、肯定の対象は「善」でイメージされる道徳的善だけではない。それは、役に立つという意味での有益的善や、喜びを与えるという意味での快楽的善をも含む。すなわち、行為主体や感情主体が何らかの価値を置いている、ということ以上のことを意味していない(p.17-19)。「善さ」という漢字はかなりミスリーディングで、せめて「良さ」とされるべきだろう。そう考えたとき、もはやこの「善さ」は行為や感情と独立には考えられない。価値のないものや価値を破壊するものを希望する人はいない、と著者は主張するが(p.46f)、この言葉は空虚である。何かを希望していることが、それに価値があることを定義するのだから、価値の無いものを希望することは論理的にありえない。

本書では、こうして単なる「良さ」だったものが「善さ」へと変わっていく。例えば、「死と受難」を直接的に喜ぶような心の在り方は歪んでおり、異常であり、不健康な在り方と言われる(p.196f)。なぜだろうか?「善さ」は「良さ」として捉えられたはずだ。ここからある種の「良さ」を「善くない」ものとする根拠は、どこにあるのだろう。先に述べたように、長期的利益を扱う「理性的な意志」が根源的な肯定性を生む。しかしなぜ短期的利益よりも長期的利益が高い価値を持たなければならないのか?ドゥルーズ=スピノザ的に言うと、ここではエチカとモラルの区別が付いていないのだ。

あるところでは、次のようなことがさしたる論拠なしに言われている。「人間は、自らの心とは全くかみ合うところのない宇宙のなかに、異邦人として偶然的に投げ込まれているのではない。[...]個別的・短期的に見れば、我々の心のなかには、肯定的な心の動きだけではなく、否定的な心の動きも生まれてこざるをえないが、総体的・長期的には、この世界との絶妙のつながりのなかで調和を見出し、肯定的な仕方で情緒的に自己形成していける存在として、人間は存立せしめられている」(p.82)。

世界の整合性に対するこの確信は、神に求めざるをえないと思う。時代的に神への完全な信頼のもとに生きているトマスには、この確信を疑問に付すことはできない。それが顕になるのが、神の感情についての議論である。歴史神学者のマクグラスは、世界の整合性に対する疑念を背景とする道徳的無神論に対して、神の「受動可能性=受苦可能性passibilitas」を主張する。そしてその対抗に、トマス・アクィナスやアンセルムスの伝統的な神観念が置かれている。これに対して著者が取り出してくるトマス・アクィナスは、次のような形で神の感情を認める。まず、神は完全に能動的な存在であるから、人間のような受動的感情は存在し得ない。しかしそうした感情が発露する「意志の単純な運動simplex motus voluntatis」は存在する(p.153-158)。そして後者を含む形で感情affectusという言葉を定義し直す。とはいえ、怒りのような否定的感情を神に認める訳にはいかない。したがって、それらは行為の結果を見て、人間が比喩的に言っているだけだとされる。罰を下しているような神の行為は、怒りに基づいているのではなく、実際は正義の秩序への愛に基づいている。人間は比喩的にそれを神の怒りと呼んでいるだけだ(p.163)。

この議論がマクグラスへの反論となっているようにはとても見えない。意志を含む形で感情という語を定義し直すのは、かなりアクロバティックだ。感情という概念を拡張しておいて、したがって神も感情を持つとするのは、共通の議論の土台を崩してしまっている。しかも否定的感情を帰属できない。神の受苦可能性はまさに否定的感情に議論のポイントがあるのだ。さらにこうした、受動的感情を持たず、そうした感情に基づく意志を発露する神の姿は、まるでクオリアを持たないゾンビを思い浮かばせる。やはりこの辺りに中世人たるトマス・アクィナスの限界があるだろう。

最後に、感情についてこんな記述がある。「感情の本質は、単に主観的に「感じとられる」か否かという点ではなく、人間存在全体をその深層において「動かす」原動力として捉えられる」(p.33)。これを見て思うのは、本書には感情feelingと情動emotionの区別が無いことだ。トマス・アクィナスにそんな区別はないだろう。ただ、根源的肯定性に関わり人間を動かすのは情動の方であり、感情ではない。感情と情動の区別を背景にすると、本書の議論はもっと見通しよくなるだろう。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/829-5edd289f

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。