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宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』


新書だが600ページ近くある。主にサブサハラ(サハラ砂漠より南の地域)のアフリカの、先史時代から現代までを扱ったもの。10名以上の著者による、多面的な記述。アフリカについて考えるに際し、基礎的な知識と考察の軸を与えてくれる良書。

アフリカの歴史の記述は困難を極める。通常のアフリカ史は人類が登場した約150万年前がまず書かれる。ところが、その次はヨーロッパ人がアフリカを探検して、植民地支配を始める19世紀末までにタイムスリップしてしまう。人類発祥の地からヨーロッパ人の到来までの間の歴史が書かれない(p.12)。これには、そもそもアフリカの歴史には文字史料が乏しいことがある。また植民地支配によって、それ以前のアフリカは未開・非文明の社会とされていたため、そうしたバイアスを取り去って評価する必要がある。その際に、西欧にもあった社会(階層化された封建社会や、官僚制、法治社会など)がアフリカにもあったのだと、単純に西欧の図式を持ち込んで過去をアナクロニズム的に評価するでもない。
ヨーロッパと接触する以前のアフリカ社会には、さまざまな民族と多彩な王国が興亡し、強靭で広範な商業ネットワークが成立していた。もちろん政治・経済上の利害や野心が衝突し、多くの争いや対立を生み出したが、重要な事は、こうした交渉や対立は常に対等、平等の立場でなされたということだ。[...]しかし、15世紀末に始まり、今日に至るまで500年以上続いている大西洋を隔てた大陸間交渉では、アフリカは常に弱者と敗者の側に立たされてきた。[...]奴隷貿易以降、ヨーロッパが主導する近代世界システムにからめとられたアフリカは、人、モノ、そしてココロをヨーロッパの帝国主義と植民地主義によって一方的に蹂躙され、深い傷を負わされたのである。(p.279f)


本書はおおよそ、人類誕生の時代の考古学的記述、4つの河川地域を中心としたアフリカ社会の発展、そうした社会と外世界との交流、ヨーロッパの来襲と植民地支配、植民地支配への抵抗と独立、そして現代に残された課題という6章からなっている。

まず先史時代でのバンツー系農耕民の南下というテーマが興味を引く。紀元前6000年頃のサハラ地域は砂漠ではなく、「緑のサハラ」とも言われるステップ、サバンナだった。農耕文化がこの地域で発展する。ところが紀元前3000年ころからサハラの乾燥化が始まる。それまでカメルーン西部、ナイジェリアとの国境付近にいたバンツー系の農耕民は、紀元前1000年ころから南部に向かって移動を始める。鉄器文化の担い手だった彼らは紀元後5世紀には東アフリカ、南アフリカの沿岸部に到達している。これが各地のアフリカ社会の基礎をなした(p.55-62, 66f)。

4つの河川地域とはザイール川、ザンベジ・リンポポ川、ニジェール川、ナイル川の4つ。これらの河川地域にどのような社会が成立してきたのかを、ヨーロッパ人の来襲までの時代で丹念にたどっている。この章がアフリカ本来の歴史を扱ったもの。アフリカ史の記述の根幹をなすものだろう。

河川地域のこうした社会と外世界との交流も重要な論点。ともするとアフリカ社会は閉ざされており、ヨーロッパ人の来襲まで外との交流が少なかったようにみなされているからだ。扱われているのは、サハラ砂漠を介した北アフリカのイスラム諸国との交流、インド洋を介したインドやアラブとの交流、大西洋を介した大航海時代のポルトガルなど西欧との交流。なかでもサハラ砂漠はアフリカが外的世界と交流するための最重要な媒体の一つであった(p.180)。

サハラ砂漠はその南北を厳しく隔てているように見えるが、ラクダを使った交易が盛んに行われていた。サハラ砂漠を越えた南北地域の交流は7世紀後半から8世紀始めにかけて活発化した。これはアラブが北アフリカの征服を成し遂げた後。ただしその交易を担ったのは、元々サハラで交易を行っていたベルベル系住民が中心だった(p.187)。サハラ交易史にある興味深い記述は、モロッコのソンガイ王国支配を受けた、アフリカナショナリズムの初期の芽生え。西スーダン(スーダンとは現在のスーダン共和国のことではなく、サハラ以南の東西の広い地域のことを指す)に栄えたソンガイ王国などでは、金が産出し、これが重要な交易品目だった。しかし金を産出しない中央スーダン(カネム・ボルム帝国など)では、奴隷がもともと主な交易品目だった。ただしこの奴隷は、西欧諸国との奴隷貿易とは異なり、数も少なく対象となったのは若い女性だった。やがて17世紀から18世紀にかけて、モロッコがソンガイ王国を支配する。こうして、支配者は現地の人間ではなく外部となった。外部の人間に奴隷を取られる国際交易の矛盾は、アフリカナショナリズムの芽生えにつながる。こうして18世紀から19世紀にかけて、西アフリカ内陸世界(セネガンビア地域を発端として)では遊牧民フルベが独自のイスラム国家の建設を目指す、フルベの聖戦が起こる(p.199-208, 409-411)。

インド洋での交易はヒッパロスの風とも呼ばれる季節風に基づく。8世紀頃からこの交易は記録に登場する。アフリカで産出する金、竜涎香、象牙、材木、スパイスなどを求めて、ペルシャ湾岸、オマーン、イエメンなどからアラブ人やペルシャ人の商人が訪れた。ただ15世紀にポルトガルがモンバサを中心として交易を支配するようになると一変する。18世紀にはザンジバルを中心として、オマーンのブー・サイード朝がインド洋交易を支配する。奴隷貿易について、ザンジバルを拠点とした東アフリカの奴隷貿易では、奴隷は新大陸ではなく西アジアやインドに運ばれている。19世紀になると、イギリスを始めとして東アフリカでの奴隷貿易の禁止に向けて動き出す。 1873年にイギリスとオマーン帝国の間ですべての奴隷売買を禁止する条約が結ばれ、ザンジバル奴隷市場は閉鎖されることになる。しかし奴隷貿易が完全に姿を消すのは20世紀になってからである(p.234-237)。なおこの奴隷売買の禁止は人道的なものではなくて、産業革命による賃金労働者の登場によって、奴隷を買うより安い労働力が手に入るようになったからだ。

大西洋を舞台とする西欧諸国との交易が盛んになるにつれ、交易拠点はサハラを超えるルートからギニア湾海岸部へ移動する。これにより各国の盛衰が生まれる。大西洋交易でも奴隷は主な交易品目だった。むしろ奴隷の交易で有名なのはこのルートだ。4世紀に渡る奴隷貿易がアフリカにもたらしたものは、ヨーロッパ産の安価な金属製品や織物が流入したことにより、地場産業が衰退し、技術が停滞したこと。なお、アフリカ西海岸の大西洋交易は当初の友好的な貿易から奴隷貿易へと展開したが、アフリカ東海岸のインド洋交易ははじめから略奪と海賊行為に溢れていた(p.265-267)。

そして話題はヨーロッパ人の来襲と植民地支配へ。ヨーロッパ各国で異なる植民地支配の様が描かれる。イギリスによる、現地の支配体制を活かした間接統治。フランスは当初の同化政策から、協力政策へ移行。コンゴのベルギー国王領時代の圧政の反省を踏まえ、三位一体政策(行政府・民間大企業・キリスト教伝道団の組み合わせ)の成功。第二次世界大戦後でも(連合国側だったため)ファシズム政権が残ったポルトガルでは、その後進性により、過酷な植民地支配が行われた。

植民地主義に対する抵抗は、三つの時期に分けられる。1880年から1910年の初期抵抗、植民地支配が確立してから1935年までの第二期の運動、1935~1960年までの独立運動の三つ。特に初期抵抗は、強大な火力兵器を備えたヨーロッパに対する前近代的、無謀な戦いであり、アフリカの未開さ、非文明性を表しているとされてきた。機関銃で掃射され、ヨーロッパ側の死者100人未満に対して、アフリカ側が数万人というレベル。しかし本書はこの初期抵抗が、その後の独立運動を準備していると見る。無頭社会のケニアのナンディ、霊媒師の反乱のジンバブエとタンザニア、キリスト教黒人協会のコンゴでの抵抗が扱われる(p.397-409)。

独立後のアフリカは経済に多くの問題を抱える。四つの問題に整理されている。外貨獲得手段が、植民地時代に開発された少数の輸出産物しかないこと。食料自給が困難であり、せっかく獲得した外貨が食料の輸入に使われてしまい、国の発展に寄与しない。国内インフラ(道路・鉄道)が植民地時代に築かれた農産物・鉱産物の輸出用であり、国内の主要地域を結ぶようになっておらず国内統合が困難。ヨーロッパから廉価な工業製品が輸入されたため、アフリカ在来の手工業が壊滅しており、熟練労働者が決定的に不足している(p.473-475)。

今後アフリカはどのような道を歩んでいくのか。ヨーロッパの政治経済体制をそのまま輸入するでもなく、東アジア的なモデルでも、アラブ的な資源に依存するモデルでもない、アフリカならではの国家や都市の形とは何か。本書では、いくつかのヒントが書かれている(p.555-559)。例えば、単一のネイションを前提としないエチオピアという国家の形。エチオピアでは多元主義製作が推進され、国家は各民族の分離独立の権利を保証する緩やかな統合体である。こうした緩やかで単一でないアイデンティティ、「浮遊するアイデンティティ」はアフリカ社会が長年作り上げてきた編成原理とも言える。ある民族に属する人間が、移住や生活上の便宜によって、ある日、別の民族に帰属することは珍しいことではなかった。また、農耕する都市というアイデアもある。ヨーロッパの基準では農村と都市はまったく別物である。ところがアフリカでは、都市と農村は重なりあい、融合していた。都市住民は都市に住みつつ、周辺に畑を持ち、畑を耕して暮らしていた。この農耕する都市はアフリカ都市の原像。ウガンダの首都カンパラでのシティ・ファームの拡大は、例えばその現代版である。
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