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三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』


生物は、自分の視点から離れた客観的な視点から世界をとらえて行動しているのではありません。生物は主観を通して、自分自身の視点や取捨選択した情報を通して行動を形成します。ですから、人工知能を外側から構築する、つまり、製作者の神の視点から構築したとしても、それは精緻な操り人形以上のものにはならないのです。人工知能に知能を与えようとすれば、その人工知能から見た世界を構築することが本質なのです。(p.285)

ゲームにおけるキャラクターを本物の人間のように動かすにはどうしたらいいか。この問題を巡って、人工知能、そして哲学が語られる。「ゲームの中で、ゲームの人工知能を作るときに足場として」(p.22)必要な哲学について。タイトルからは、人間の認知を巡る心の哲学が論じられるのかもと思っていた。しかし本書に出てくる哲学は主に現象学。作られたものを人間が観察して、知能を持っていると思えればよいのではなく、その作られたものが内在的体験を持つことこそ、人工知能と呼べるという主張をしている。

もともとは5回に分けて行われたディスカッションに基づいている。扱われる哲学は、フッサールの現象学、ユクスキュル・ギブソン・ベルンシュタインの生物学や心理学とベルクソン、数学基礎論から心の哲学への流れ、デリダの差延、メルロ=ポンティの身体論。かなり本格的な議論。哲学の専門家ではないのにここまで論じるのはすごい力量だ。

第一章においてフッサールから取り出されてくる論点は、知能を思考作用から拡張すること。デカルトのコギトでは意識の作用として思考が前面に論じられていた。フッサールの意義は、意識作用を志向性を持つものという観点から捉えたことによって、感情や行為にまで拡張したこと。人工知能においても、思考に偏りがちな捉え方をより広く捉えようとしている(p.68-79)。
後に出てくる論点だが、人工知能の構築において標準的に使われているエージェントアーキテクチャ(p.34f)は、現象学とはかなり相性が悪いと思う。環境世界があって、その中にエージェントがいて、エージェントは環境からセンサーで情報を受け取り、知能によって処理し、身体を制御して運動する。こうした図式ほど、現象学的でないものはない。現象学は、まさに我々はこうした図式を体験しないし、こうした神の視点を取りえないとした。コギトの拡張ならばブレンターノの記述的心理学で間に合うが、現象学がエポケーで切り開こうとしたのは、この内在的視点である。
著者はエージェントアーキテクチャの視点を現象学に持ち込んでしまっている感がある。それは、超越論的主観性と対象を二つの極として書いているところに見える(p.64)。超越論的主観性はこのような形では書けない。これはまさに神の視点だ。超越論的主観性は対象の経験を成り立たせるものそのもの、「場」であり、対象の対称極として書かれるものではない(ちなみにフッサールは対象の対称極となるものを自我極Ich-poleと名付けている)。ノエマは超越論的主観性の外部ではなく一部である。主観性(Subjektivität)という名称が分かりにくいのだが、これは主観というよりは経験の基体(Sub-jekt)なのだ(むしろ主観が基体だというのがポイント)。したがって書くとしたら超越論的主観性と対象を包んでいる楕円そのもの、というよりどこにも書きようがない。超越論的主観性に外部などないのだから。
また、具体的な知覚を第一階層として、抽象的思考が第二階層とするように、エージェントアーキテクチャはサブサンプションアーキテクチャとして階層化されている(p.36f)。エージェントアーキテクチャにおける志向性について、「第二階層の知能が第一階層のいろいろなイメージを志向している」(p.62)と書いているが、それは誤りだろう。抽象的思考は志向的対象として独自の対象(抽象的対象)を持っているのであって、その抽象の元である具体的な対象を志向してはいない。二つの階層の間にあるのは基づけ(Fundierung)のはず。

第二章はユクスキュルを論じて、生物は世界を客観的に捉えているのではなく、それぞれの仕方で捉えているという論点を出してくる。そして固有に捉えた世界に対して、生物は反応している(対世界)。この話からギブソンのアフォーダンスへ至る。逆に捉えれば、その生物に対して世界はある機能をアフォードしている。ゲームにおいても、マップ上の物はアフォーダンスを持つとして扱われている(p.127-129)。例えばマップにある鍵は、カギ穴に差し込むことができるというアフォーダンスを持ち、差し込めばドアが開くというルールがある。アフォーダンスとルールという仕方で知識を表現しておき、ゲームのキャラクターにはこの形で知識表現を与える。
この章の最後にあるベルクソンの内的時間の話は、少しだけしかなく位置づけがよく分からない。特に、「人工知能がベルクソンの言う持続的な時間を獲得するとき、はじめて生き始めたといえるかもしれません」(p.139)という件は理解できない。いったい何がどうなったときに、我々は人工知能が持続的な時間を獲得したと言えるのだろうか。その真理条件は何だろうか。

第三章は数学基礎論から心の哲学への分析哲学の流れを扱っている。最後には意識モデルの話でブロックやデネットが登場し、人工知能側からの議論と合流している(p.182-191)。人工知能の哲学として、最初に私が思い浮かべたような内容。ある意味、ここはとてもスリリング。
ところで、数学基礎論について書かれたところは問題が多い。まず小さなところとして「現代数学は一階述語論理で全部記述可能です」(p.158)は、少なくとも集合論を入れないと一階述語論理だけでは数学は記述できないだろう。連続体仮説については意味不明な記述になってしまっているように見える。
逆にいえば、連続体仮説を肯定しても否定してもその公理系は変わりません。それが「選択公理」というもので、これが成立するように公理を組んでも数学的には問題ないし、しないといっても問題は無いという、不思議な仮説です。つまり、数学の体系というのは、実は完全ではないわけです。証明できるか、否定できるかのどちらかではなく、どちらもできないような定理が存在するのです。(p.162f)

一文目は、公理的集合論の公理系ZFには、連続体仮説が真であるモデルと偽であるモデルが存在する、という意味だろうか。そうでなく、連続体仮説を肯定すべく、集合論のモデルはすべて連続体仮説が真であるようにしたい、のであれば、公理系は変化するだろう。「選択公理」はAxiom of Choiceのことを言うのであれば端的に誤りだ(それ以外にこの名前を使うべきではない)。選択公理は、「空集合でない集合からなる集合族について、その直積集合は空でない」という公理であって、公理を選択することではない。選択公理と連続体仮説は関係ない。また、選択公理が成立しないように公理系を組んだら計り知れないほど大問題であるし、それは連続体仮説についても同様だ。最後の文について、定理とは公理系から証明できる文のことなので、証明できない定理とは語義矛盾である。また、証明できるか/否定できるかという対概念ではなく、証明できるか/否定が証明できるかという対であるべきだ。また、完全な公理系、すなわちその公理系のすべてのモデルで真である文がすべて証明可能である公理系は存在する。

第四章はデリダについて。デリダをどう人工知能に絡めてくるのだろうと、わくわくして読んだ。議論は『声と現象』と中心としている。差延によって主体はつねに自分自身に遅れてくる。このことが自己の対象化・記号化を可能にし、反省と自己知の可能性が拓かれる(p.218-227)。すなわち、知能とはモノやソフトウェアではなく、「自分自身の構造を恒常的に保とうとすると同時に、そから逸脱しようとする運動、また統合しようとする運動を行っているというところが一つの特徴」(o,227)ということ。自己認識で捉えられたものの表現、というのが言語の基礎となる。現在の人工知能はただ記号の操作をしているだけで、内面を持っていない。自分の内面、精神的な活動、運動や構造の変化をもたらす行為こそ発話である(p.238)。

第五章のメルロ=ポンティは、こうした自己意識を巡っている。なかでも「遠心性コピー」という認知哲学の概念が面白い。我々が運動するときには、運動指令が運動神経を伝わるときに、同時にそれはコピーされる(遠心性コピー)。このコピーは、運動を行ったこうなるはず、という事前予想である。そして運動の結果に実際にそうなったことのフィードバックが、運動主体感や身体保持感を生み出す(p.248-253)。メルロ=ポンティでいうと身体図式である。この遠心性コピーを利用すれば人工知能に自己感覚を持たせることができる。確かにこの遠心性コピーの議論は現象学的だ。
また、谷淳の力学系認知の話が扱われていて、これがとても面白い(ちなみに参照されている論文が収録されている本は『脳・身体・ロボット』ではなく、『脳・身体・ロボット』である)。行為主体の予想や解釈と、客体からのフィードバックの両方をRNNで同時に学習する仕組み。この力学系が心の哲学でいう力学系なのか分からないが、すると表象渇望問題とかはどうなるのだろう。そもそも遠心性コピーとは表象とはどう違うのか。また、想像は遠心性コピーで解明できるか?人工知能は空想できるのだろうか。いやそもそも、モデルを作って教師データとの違いからモデルのパラメーターを修正する機械学習の一般的な枠組みは、身体図式のようなものではないのか。モデルで予想される値が主体の予想で、それが教師データからのフィードバックで調整されるのでは。

私には興味のある議論が多くあって、一読では分からないポイントも含めてとても面白い。本書の基となったディスカッションに参加できていれば。気づくのがだいぶ遅かった。
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