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ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』


DGの哲学の魅力は、国家、資本主義、精神病といったすぐれて人間の精神活動に関わるとされてきたものを、唯物論的に、機械によって論じるところにあった。少なくとも私にはそうだ。本書ではDGが哲学とは何か、というこれまたすぐれて人間の精神活動に関わる問題について論じる。しかし本書では従来の唯物論的視点はあまり見られない気がする。また哲学は科学、芸術と対比され、3つ組として論じられるのだが、この図式がカントやヘーゲルばりにやや硬直しているようにも感じられる。

ある意味で、哲学とは何かについて本書は極めて明快だ。つねに新たな概念を創造すること、それこそが哲学の目的なのだ。 概念は与えられたり、そこにあって発見されるのを待っているものではない。概念は創造されるものだ(p.13f, 24)。概念は構成要素をもつ。これら構成要素は概念において互いに不可分であるように結びついている。構成要素が共立していることconsistantが、概念を整合的consistantにしている。しかしながら概念は、構成要素に還元されるものではない。概念によって、構成要素には還元されない新たな、特異的な地平が拓かれる(p.36-39, 156f)。

哲学が創り出す概念は、それが生まれた土台の上でしか通用しない。科学とは違って、哲学では同じ概念について違う哲学者が語るのはほとんど不可能だ。概念はその哲学の体系のなかにのみ、位置付けられる。つまり哲学は、概念を創造するとともに、その概念が内在する平面を創造する(p.75f)。この平面の上でのみ概念について問うことができる。したがって哲学には共通の議論の土台といったものがない。哲学は議論、討論を嫌うのだ(p.51-55, 57-61, 142)。この平面は思考の土台となるものだが、この土台そのものは思考することができない(p.106f)。平面は思考できないという点で思考の「外」にあるのだから、思考に内在しているこの平面を無理やり思考しようとすると超越になってしまう。例えばハイデガーに倣えば、存在が存在者にすり替わるように。とはいえ、内在する平面を内在のままに捉えたのはスピノザだけだとDGは言う。スピノザこそ、超越とまったく妥協しなかった「哲学者たちの王」(p.87)なのである。

共通の議論の土台が無い、哲学という営み。哲学の本領は、知にはない。哲学は真理を目指してはいないのだ。哲学に間違っているということに意味はない。哲学に対する評価は誤っている、ではなくて、重要ではないとか面白くないとかなのだ(p.145)。ちなみに、概念を平面の上で創造するため、また平面そのものを描くために概念的人物が要請される(p.133-135)。この意義はよく分からない。

哲学は科学、芸術と比較される。哲学は文(あるいはその等価物)をもって作業する。文から哲学が引き出すものが概念conceptsだが、科学が引き出すものは見通しprospects(法則による将来予測)、芸術が引き出すものは被知覚態perceptsと変様態affectsである(p.45, 115f)。芸術についてはよく分からない。ただ、芸術作品は被知覚態と変様態を知覚された場面や主体から独立させるものだという。芸術は有限なものを創造して、無限なものを回復しようとするのだ。このポイントは納得する。本書の論点は全般的に哲学と科学の対比にあって、芸術は3つ組の一つとして出てくるだけだ。

科学との対比では、科学が扱う命題と、哲学が扱う概念を区別しなければならない。概念は哲学にしか無く、科学的概念というものは存在しない(p.63f, 242f)。命題は事態(物の状態)を指示する。命題は可能的なものであれ、現実の要素から合成される事態を指示する(前期ウィトゲンシュタインのような連想が浮かぶ)。したがって命題は、その構成要素を超えることはない。概念は要素に還元されず、縦方向に創発するものだ(p.42f)。哲学と科学は、三つの観点から対比される。平面、諸要素の独立性、人物だ(p.224f)。ところで、数学においても、それは概念を持たないと言えるだろうか?

科学のなかでも論理学が大きく論じられる。ようやく論理学の知識がアップデートされたようだ。『意味の論理学』では論理学の知識が無く、錆びついた道具で無理やり切っている感じがあった。本書ではもはやそうではない。連続体仮説を正しいとしていたり(p.204)、概念の外延は真理値の集合だとしていたり(p.228)するところもある。ともあれ、論理学は哲学のライバルなのだ。論理学は哲学を憎悪し、取って代わろうとする。けれども、哲学的概念は論理学によって解明されるものではない。哲学的概念は論理学が示すことしかできない、 沈黙するしかないところにある(p.235f)。ここでも前期ウィトゲンシュタインが思い浮かぶ。とはいえ、哲学は科学を暗示することでしか語れないし、科学は哲学をまるで雲についてであるかにしか語れない。哲学と科学はお互いの構成に介入しない。それぞれが適切な手段なしに互いを論じるのは遺憾なことだ(p.270-272)。

とはいえ、この線引はたしかに危険である。科学は哲学と区別された云々のもの、科学を出来上がったものとしてみることは、哲学をも制限してしまう。ベルクソンや、現象学はこうした誤りを犯した(p.261)。その通りだ。哲学においても科学においても、時間は直線的、継起的に流れていない。哲学ではそれぞれの平面が層状に重なり合って進む。科学ではセリー的な枝分かれした時間を展開する。過去のものは遡及的に再構成されるのだ(p.210-212)。ただ、新たなものはその歴史からは生まれない。生成そのものは歴史的ではなく、出来事である。歴史は生成に際して乗り越えられるべき、背を向けられるものに過ぎない。歴史がなければ生成は未規定なものにとどまるが、新たなものは歴史の中にはない(p.166)。

概念はまさに出来事である。出来事をふさわしいように生成することこそ、哲学の唯一の目的である(p.270)。出来事は潜在的なものであり、事態(物の状態)として実現されたものではない。現動的でないが実在的なもの、抽象的でなく理念的なもの。潜在的/顕在的、実在的/現動的の対がここで見られる。科学とはカオスから現動的な事態へ至るファンクションとして位置付けられる(p.262-264)。つまり科学は、カオスを要素に分解して整理し、要素の組み合わせからなる事態として表現する。初期条件を入れれば可能な事態が出力される関数のように、科学はカオスから予測を可能にする。

哲学、科学、芸術は思考がカオスに立ち向かう際の3つの平面であり、カオスに由来するもの、カオス状のもの(カオイド)。カオスに立ち向かい、平面を描くことが思考だ(p.332, 350)。ただ、思考するのは人間ではない。カオスを前にして思考するのは脳だ。脳が思考において主体へと生成するのであって、思考は主体がなすものではない(p.353)。何だか後期メルロ=ポンティ的。

わたしたちはコミュニケーションを欠いてはいないのであって、反対にコミュニケーションをもちすぎている。だが、わたしたちには創造が欠けている。わたしたちには現在に対する抵抗が欠けているのである。概念創造は、それ自身において、未来の形式に助けを求める。概念創造は、ひとつの新たな大地と、まだ存在していない民衆を呼び求めるのだ。(p.186)
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