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マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ『意識はいつ生まれるのか』


人の脳において意識とは何であって、それはどのように生まれるのかを扱った一冊。脳神経科学者の書いた本。専門的ではあるものの、とても分かりやすい記述。文章を書くのがうまい。文学的な表現から、ある問題が出てきた背景や歴史、多様な実験、比喩などを駆使して、この魅力的な謎に挑んでいる。本の構成もよくできている。散文的な章から入り、意識にまつわる謎を提示して、意識はあれでもないこれでもないと読者を謎に導く。中間部の第5章で、本書が提示する意識とは何かへの答え、つまり統合情報理論とその情報の統合され具合を測る量Φを導入する。そして来た道を戻っていき、再び散文的な章で終わる。

最初の散文的な章で読者を意識の謎に誘う。それは、宇宙飛行士が月面から地球を見た時の体験に喩えられる。解剖実習をやっている医学生が手の上に脳を載せる。その脳によって、意識に世界が映じられている。この感覚は月面から地球を見て、すべての人間的営みがあの小さく見える地球の中で行われているのだ、という感覚に似ている(p.22-25)。ついで本書の鍵となる事柄の一つ、意識の判定の話。本人以外、外から見てある人に意識があるかどうかをどう判定すればよいか。植物状態の場合、生きてはいるが意識が欠けている(p.71f)。しかし身体が一切動かせないとしても、意識がないとは言えない。意識は身振りはもとより、感覚のインプットが無くても存在しうる(p.84)。こうした状態はロックトインと呼ばれる。では、脳のニューロンの活動量で分かるだろうか?これも違う。ニューロンの活動量が正常、あるいは過剰であっても意識がない場合もある(てんかん)。また、活動量が低くても、意識を回復することがある。ニューロンの同時発火でも分からない。かくして著者は、現在の科学では他人の脳に意識があるかは検知できないと結論付ける(p.87-91)。

これに対し、著者が出す仮説が統合情報理論だ。その基本的な命題は「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である。つまり、ある身体システムが情報を統合できるなら、そのシステムには意識がある」(p.126, 111)である。ポイントは情報の統合だ。これを著者は、デジカメの受光センサーであるフォトダイオードとの対比で語る。フォトダイオードは光を認識し、情報を伝達する。しかしフォトダイオードが集まった受光センサーに意識はない。それは、フォトダイオードどうしの情報が連携、統合されることなく、フォトダイオードはそれぞれ単独で動くからだ。人間の脳では、小脳がちょうどこうした仕組みになっている。小脳は400億ものニューロンからなっているが、小脳が無くても意識は消失しない(運動は著しく阻害されるが)。小脳の半球同士は大脳のような脳梁でつながっていないし、小脳皮質をつなぐ繊維は一つもない。つまり、小脳は完全にモジュール化されている。だから小脳は処理が早く、また意識が宿らない(p.147-151)。だがそうだとすると、フォトダイオードの情報を統合して処理している画像処理エンジンには意識があるのだろうか。画像処理エンジンが複雑になり、さらに多くの情報を統合できるようになってある閾値を超えると、それは意識を持つのだろうか。よく分からない。

情報が統合されているとは、識別できる可能性が多いということ。暗闇を視覚で捉えるとき、単に暗さを感知するニューロンが発火したということではない。その時には、他のニューロンが発火しなかったという可能性を合わせて認識されている。これが統合されていること(p.112-118, 129-139)。確かに、エントロピーとしての情報量の捉え方は他の可能性をいかに排除したかがポイントとなっている。こうした情報の統合は、視床ー皮質系で行われる。それゆえ、視床ー皮質系が意識の基盤なのである(p.156-158)。

著者は、情報を統合されている度合を測る量Φを提案する。これはニューロンの結合ネットワークにおいて、グラフ論的に定義される量だ。基本的にはニューロンどうしの結合が密であればΦの値は高い。非連結なグラフではΦは低い。ただし全ノードが結合しているグラフでは、同様にΦは低い。すべてのニューロンが結合したら、全部が同じ情報を受け取り同じ働きをするわけで、グラフが担える情報量は少ない(p.133-139)。理論的にはΦは自然数を取るが、実際の脳でそれが測れるわけではない。実際の脳のΦを測る指針は、次のようにまとめられている。
脳の情報統合能力を測るには、大脳皮質ニューロンの集合体をじかに刺激しなければならない(中核への直接アクセス)。そうやって、反応の広がり(統合)や複雑さ(情報量)を記録するのである。反応は、ミリ秒単位で起こる(意識の時間スケール)。(p.183)


そして著者は、本書の前半部分で提示したいくつかの脳状態(植物状態、ロックトイン、睡眠時など)でこのΦがどうなるかを、多くの実験から明らかにする。この実験は、経頭蓋磁気刺激法(TMS)と脳波計の組み合わせ。すなわち強力な磁場を頭蓋外で発生させ、電磁誘導で大脳皮質ニューロンを発火させる。そしてそのパルスが脳内をどう伝わっていくかを脳波計で計測する。その結果、覚醒時にはパルスの複雑な伝播が見られるが、睡眠時や植物状態の脳では見られず、またてんかんにおいては覚醒時と違う伝播パターンが見られる。また、植物状態なのに覚醒時と同じ伝播パターンが見られたケースは、数日後に意識を回復した(p..189-202)。

かくして、意識があるとは視床ー皮質系において情報が統合されているということである。その度合いはある量Φで測られるが、これはTMSと脳波計を使って推定することができる。もしパルスの伝播パターンが覚醒時と同じであれば、その状態の脳には意識があると言える。これが著者の結論となる。

私はこの話には大きな疑問を持つ。それは、レム睡眠時の脳について。レム睡眠時では眼球が高速運動しており、普通、この時に人は夢を見ているとされる。著者によれば、TMSと脳波計による測定では、レム睡眠時のパルス伝播パターンは覚醒時と同じである(p.205-208, 219)。したがって統合情報理論によれば、レム睡眠時の脳には意識がある。著者はレム睡眠時には意識があるとしており、これに疑問を持っていない(p.99)。この意識概念は何か変だ。もちろん意識概念は相当に多様であって、それは覚醒、自己意識、注意など多くのフェーズを持つ。だからこそ、本書は散文的に始まっている(p.19-21)。けれども、レム睡眠の人は眠っているのであって、決して意識があると言えないのではないか。

意識があると言えるには、認識や思考などの意識作用において、それは自分が行っていることだという自己意識があること(あるいは反省可能であること)、そして記憶との統合が必要ではないだろうか。救急隊が意識レベルを測るとき、痛みへの反応や、呼びかけへの応答を見る。その中に、自分の名前を言うという項目がある。これこそ、自己意識と記憶を問うているものだ。著者の意識の話にはこの側面がまったく抜けている。もちろん、意識の度合にはレベル差がある。自分の名前を答えられないが呼びかけには反応できる場合、「意識はあるが、朦朧としている」といった診断になるだろう。とはいえ、レム睡眠を意識があると言えるだろうか。それは単に寝ているのであって意識は無いと見なすのではないか。これは脳神経科学ではなく、我々の言語実践の話。

統合あるところに意識がある、というにはレム睡眠が反例となるように思われる。むしろ、統合情報理論が定義しているのは、植物状態から覚醒に至る間の、何らかの中間段階だろう。視床ー皮質系での情報統合を経て、どうして世界が意識に映ずるか、つまりなぜクオリアが生まれるのかは、この本では分からない。統合の上位モジュールが多くの情報量を持っていることと、クオリアの存在には大きな距離がある。そういえば著者は、心の哲学における哲学的ゾンビを、クオリアの欠如でなく意識の欠如でなぜか説明している(p.33-35)。この意識概念のズレが、大きな疑問の元だろう。ただし夢を見ているときにはクオリアがあると言ってもよいかもしれない。この辺りの私の議論は混乱している。
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