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信原幸弘、太田紘史編『新・心の哲学 I 認知篇』


認知についての哲学的論文集。5つの論文からなる。とても面白いことに、狭い意味での哲学には収まらない論考が多い。執筆者もいわゆる哲学の人間でなかったりする。フォーダーの概念原子論を中心とした、哲学における概念と認知科学におけるカテゴリー化の関わり。言語学や認知神経科学の視点を取り入れた、言語の認知への影響。行動経済学から見る、人間の思考の合理性。合理性に力点を置く、自己知と自己認知。ミラーニューロンの話を絡めた、他者理解。認知についての哲学は言語学や行動経済学、実験心理学、認知神経科学と密接に関連していることが読み取れる。

それぞれの論文は各トピックについての主要な学説を解説。それらの論争のポイントと、著者による評価と独自の観点の提示という形を取る。どれもうまくまとまっていてレベルの高い記述。概念については、カテゴリー化という密接に関連する論点をうまく切り分けている。言語表現の意味や概念の内容を、それが推論において担う役割によって捉える立場(推論役割意味論)と、語彙的概念を何らかの要素で説明することなく、端的に最小の単位とするフォーダーの概念意味論を対比。フォーダーによる批判のポイントがまとめられている。概念が合成によって、構成要素の特徴以上の特徴を担うという合成性。そして、定義からして分析的に分解できると明確に分かるような概念(「赤い花」)の分解可能性について(p.42-49)。

概念についてはプリンツの概念経験論がなかなか面白い。多様な知覚によって、関連する知覚のネットワークが長期記憶の中に作られる。概念とはそのネットワークの一部が、場面に応じて短期記憶の中に形成されたものだとされる。その内容は表象自体がどのようなものであるかでなく、ネットワークが外界のどんなカテゴリと因果的結びつきを持っているかにより定まる(p.54-58)。最後に著者の観点から、カテゴリー化はアブダクションとして捉えられるのでは、と述べられている(p.65-67)。積極的な議論の展開は無いが、可能性もあるが、アブダクションという素性の分からない推論形式に名前を変えただけにも見える。

言語による認知への影響については、サピア=ウォーフ仮説を超えて、現代の知見から何が見えるかが書かれている。さほど興味は引かれなかったが、色言語や数言語でいくつかの認知への影響が見られる。例えば測性化ウォーフ効果(p.76-83)。異なる色言語に分類する色どうしであるかに応じて、色空間上ではほぼ等距離に位置していて物理的刺激が一定でも、左視野では反応時間の違いがなく、右視野にはある。これは言語が認知に影響を与えているものとみられる。また、ブローカ野の活動と統語論的構造の対応についてやや細かくたどっている(p.95-99)。語から文を組み立てる生成言語学的な統辞処理の脳内基盤が明らかになってきている。

行動経済学と絡めた、人間の推論の合理性についてはとても面白い。人間の推論には、論理学・確率論からは合理的でないとみられるいくつものパターンがある。この事実から、人間の推論は非合理だとする行動経済学と、それ独自の生態学的合理性があるとする方向がある。人間の推論についての事実記述と、論理学がもたらす規範的妥当性の間、記述ー規範ギャップの2つの埋め方だ(p.112f, 120-122)。システム1とシステム2の議論がカギとなる。生態学的合理性に対してスタノヴィッチの鋭い批判。生態学的合理性が認められるのは、システム1とシステム2の目的が一致しているときのみ。これらが不一致の場合は、個人の目的を達成するためにシステム2が優先されなければならないと言う。また現代の高度な文明は、システム2の適用を要求している(p.142-144)。

合理性の話は心の三部分構造モデルにたどり着く。われわれの心は互いに相互作用する「自動的精神」「アルゴリズム的精神」「反省的精神」に分かれると言う。システム1が自動的精神で、システム2が後ろの二つに分かれる。最初は自動的精神が働くが、上位の目的のために、反省的精神が自動的精神を制御しアルゴリズム的精神を発動させる。自動的精神とアルゴリズム的精神はそれぞれの合理性をもち、それらを調整する反省的精神がメタ合理性をもつ。アルゴリズム的精神から自動的精神へは学習によって移行できる。将棋の学習、直観の取得などがその例(p.149-155)。この三区分って、プラトンの魂の三区分を思い出させる。欲望=自動的精神、理性=アルゴリズム的精神、気概=反省的精神だろうか。

自己知の話はやはり私自体あまり関心がないようだ。自己知の一人称特権は感覚的に納得しないのだが、自己知の確実性は常に存在するわけではないことは認められている。自己知の問題のポイントは完全な確実性でなく、他者認知との間に非対称性があることだという。また、感情や気分は他者認知のほうが正確なこともあり、自己知の特殊性は知覚、感覚、信念など命題的態度に限られるのだとも(p.173f)。シューメイカーを援用して、合理的主体としての自己は信念の自己帰属が可能である。この自己帰属における「自己」には自己解釈が入ってはならず(自己解釈なら誤りの可能性があるから)、「透明」である必要があると言う。しかしこの透明性は、直接性を確保したいがために出てきているように見える(p.192-194)。また、自己帰属が自己を意識せず透明になされると言う透明手続きは技能知とされるが、この技能知とは推論では妥当性が確保できないから持ち出されているマジックワードに見えてしまう(p.194-198)。信念の自己帰属は信念に関する言葉の文法、信念にまつわる言葉を理解しているとは自己帰属が可能であること、自己帰属ができないならば単純に信念についての言葉を理解していない、と見えてきてしまった。あまりきちんと読めていない。

他者の心的状態は、直接的な知覚が可能だという論点は面白い。笑顔は喜びの一部なので、笑顔の知覚で喜びの知覚と言えるのだ。喜びはたしかに脳状態だが、身体状態でもある。だから身体状態を知覚したことは、そのまま感情を知覚したことだ。これは、一部だけ(例えば尻尾)だけが見えている猫を見ても、我々は猫を知覚したとするのと同じ(p.229-232)。ただしこの議論は情動(というか感情?)に関してのみ通用するとされ、欲求や信念の知覚は命題知や技能知になるとされる(p.234)。ミラーニューロンについては、それによる他者の心的状態の理解は、知的理解でも共感的理解でもなく、第三の暗黙のシミュレーション的理解になると言う(p.241-243)。他者の心的状態の理解は、三つの形態からなるとされている。
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