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信原幸弘、太田紘史編『新・心の哲学 II 意識篇』


意識について。引き続きこのシリーズは単純に認知哲学ではなく、神経科学との絡みのなかでの議論を基調としている。近年のこの分野の展開として、とてもあるべき姿だろう。話題はクオリアの性格という古典的問題から始まり、知覚経験の内容、知覚と思考の違い、意識の統一性、自我とは何か、意志とは何かを巡る6つの論文からなる。

クオリアの性格を巡る議論は、レヴァインの説明ギャップの議論を扱う。それにより、いくつかの物理主義を区分している。説明ギャップは認識論的なものと存在論的なものに分かれている。哲学的ゾンビの例で書けば、認識論的ギャップとは哲学的ゾンビが思考可能であること。存在論的ギャップとは思考可能なものが実際に(形而上学的に)可能であること。もともとのレヴァインの議論は、痛みをある神経(C繊維)の発火で説明することには説明ギャップがあり、水をH2Oで説明することにはないと言うもの(p.36-41)。双子地球問題に触れられていないのでよく分からないのだが、水=H2Oにも説明ギャップがあるように思われてならない。また二元論として紹介されるジャクソンーチャルマーズの議論は「水はかくかくの機能を持つ物質である」ことがアプリオリに知られるとしている(p.52)。これが理解できなかった。アポステリオリに知られるとしている、ブロックとスタルネイカーの議論(p.52-55)がはるかに説得的。結局クオリアの性格を巡る議論は、現象概念と機能概念を区別し、現象概念の認識論的特殊性にクオリアを位置づけるタイの戦略(p.60-63)に分があるように見える。たしかに物理主義的に現象概念が特徴づけられるかは残る。
ところで驚いたことに、クオリアの性格に関する著者の見解は、この議論が神経科学の発展を妨げるから控えるべきだというものだ(p.64-66)。哲学が概念を検討しようとしても、科学自体が発展途上なのだから、問題を解決するに足る情報が無い。その状況で哲学的問題を声高に述べ、科学の発展を邪魔すべきでないと。これは、神経科学と離れたところから哲学的問題を見ているから生まれる見識だろう。この本のうち、クオリアの性格を巡る論文のみ、神経科学の成果への参照がほとんどない。こうしたアプローチでは哲学的問題の解決も隘路に陥り、結果として問題そのものを忌避する態度に至るわけだ。しかも「私はこの価値観が広く共有されうると信じる」(p.70)とまで書いている。それは面倒くさい哲学問題を消去しようとしているだけのつまらない態度である。
他の著者は健全な態度と言える。例えば、関連する概念の明確化を哲学的課題、経験的知見の再検討を経験科学的課題として、これらは相互に独立ではないとする態度(p.180f)。概念分析と経験的探求の相互作用、循環を述べるもの(p.262f)。経験的知見の概念的混乱を指摘することにより、あるべき経験的知見を見出し、経験的知見と概念を行き来して都度修正するもの(p.291f)。かくあるべし。

続いての章は、知覚内容が意識されるときの神経基盤を巡る議論。かなり神経科学よりの議論だ。ある知覚が意識的であるのは、それについて報告できるたり意図的な行為に利用できるときだとして、「グローバルワークスペース」という神経基盤に知覚内容がもらたされればそれが可能になるとするグローバルワークスペース説。ブロックはこれに対し、そうした推論や実行、報告を行う「アクセス意識」と、クオリアのような「現象的意識」を分ける。現在の神経科学の知覚内容の研究は、被験者にどんな知覚内容かを報告してもらい、その際の脳活動を調べる。したがって報告なしの知覚内容を調べることは難しい。これをいかに探るかを巡り、様々な実験や理論が述べられている。

続いては、知覚にどこまで思考的な内容が含まれているのかという問い。我々はリンゴという概念的内容を含めて知覚しているのか、赤くて丸いものを知覚しているだけなのか。知覚と思考の違いについては、明快な見解が与えられている(p.151-153)。知覚はいま自分がいる場所を中心にした自己中心的な仕方で世界を表象するものだ。知覚とは行動を導く役割を持っているから、行動を行う身体に定位する。したがって知覚には本質的に現在の内容しかない。それに対し、思考は無視点的な仕方で表象することができ、概念的である。もちろん、指標的な命題を内容とする思考もあるけれども。知覚経験の内容については、残念ながら知覚経験の内容それだけを明らかにする方法は存在しないように思われるとされる(p.166)。まずもって、反省による内観的なアクセスは知覚経験には無い(知覚に高次の概念が入っているかは内観ではわからない)。したがって行動と言語報告から探るしかないが、どちらも知覚経験だけを明らかにするものではない。この点は前章の議論にも通じる。

意識の統一については、因果的統合と現象的統一性の区別が本質的(p.193-196)。例えば色の知覚と形の知覚が因果的に統合されており、常に共時的に知覚されるとしても、クオリアのレベルでそれらが統一されて現れるかは別問題である。こうして因果的統合を現象的統一性を区別した上で、現象的原子論と現象的全体論の妥当性を探っている。原子論によれば、色や形の知覚はバラバラになされておりそれだけで成立していて、これらを統合する仕組みが別にある。全体論によれば、バラバラでは成立しえない。ポイントは、原子論と全体論にはその中間段階がありうるということだ。分離脳の症例のように意識経験の現象的統一が部分的に破れている例はあるが、完全にバラバラになった症例はない。このことは緩やかな現象的全対論を支持している(p.210f)。

自我の統一を巡る議論は幅広いもの。マッキンタイアーやダントーの物語的自我とそれに対するストローソンの批判。様々な意識内容が統一的に現れる共意識としての現象的自我を巡るデイントンの議論。そして自己意識や身体所有性感覚の脳神経的相関物を巡る神経科学の議論。この三つの議論が扱われている。ここまで幅広く異質なものを「自我」という観点からまとめて論じるのはやや無理があるように思われる。どれか一つに定位して論じた方が実のある議論となるだろう。

最後は意識的意志(自分が意志を持って行動しているという意識)は幻想であるとするウェグナーの議論を巡る。これは自由意志の存在に関係する深い議論となりうる。リベットの話(意志する前に準備電位が観測できるとか)も出てくる。ただ話が拡散してしまうので意図的に抑えられている。ウェグナーの意識的意志の幻想の主張は、認識論的なものとされている(p.277-279)。つまり我々が自分の意志で行動が行われていると感じる意志感覚、意志の有無についての認識は、誤りうるものである。この主張は、実際には意志と違う因果関係で行動が行われているという存在論的・形而上学的問題ではない(リベットから発展する話は後者であるように思える)。意志についての認識(意識された意志、意識的意志)の信頼性の議論と、意志(この場合、無意識的意志となろう)が行動を導くのかどうかという問題は区別すべきだ。ところで著者は、ウェグナーの議論を実体としての自己(デカルト的小人)を措定する古典的な意志概念への批判としている(p.280-286)。そこからウェグナーの議論が教えることは、我々は古典的な意志概念を作り変えねばならないということだとしている(p.295)。この論点は不明だった。独立した実体としての自己の適否というより、自己と区別して意識的意志という実体が措定されているのが不明だし、上記の認識論的な議論と存在論的な議論を混同しているように見える。著者は、自己の行為の原因を知ることができないのならば自己外の原因が入り込んでいるかもしれないのだから、認識論的自由は存在論的自由に関係する(p.282f)というが、これは混同を許すものではない。デカルト的小人の話はウェグナーの議論で改めて論じられるよりもずっと明白に問題のある議論だろう。とはいえ、正しくは意識されていないがそれでも行動を導いている無意識的意志なるものが何なのか、それを我々はなおも意志と呼びえるのかは重要な論点だろう。
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