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野口祐子『デジタル時代の著作権』


著作権という制度が、デジタル技術の進化によってどのような影響を受けているか。著作権法が抱えている根本的な問題は、100年以上前に決められた法律の枠組みでありながら、ベルヌ条約などの国際条約により変更せず維持するよう求められていることだ(p.16)。特にベルヌ条約の第27条第3項には、条約の骨子の改正は、加盟国164か国の全員一致でなければ変えられないという規定がある(p.89)。
そもそも馬車の時代に作られた法律の枠組みを、今、宇宙船で宇宙に飛んでいけるような時代にまだ使っていることがナンセンスなのではないかという疑問が生まれてきても当然です。交通ルールでいえば、今の自動車の時代の交通ルールと、馬車の時代にあった交通ルールは全然違うはずです。なぜ著作権だけがずっと同じでなくてはならないのか。活版印刷術の時代からインターネットの時代になり、人々の行為も変わったし、人々の意識も変わったし、一つ一つの行為が社会に与えるインパクトも変わりました。したがって、その時代に合わせて法律を変えていかなくてはおかしいのではないか、ということが、根本的に問われているのです。(p.88f)

本書はまず著作権の根本思想や歴史を述べた後、間接侵害というケースに照準を合わせる。その後、著作権法の改訂が進まぬまま、技術の進展により可能になってしまった権利保護の仕組みDRM、また著作権をめぐる国際力学について触れる。また、科学分野における著作権を取り上げる。最後に、著者自体深くかかわっている、日本版フェア・ユースのありうる姿について述べている。新書という形態でもあり、実務家による内容はしっかりしていつつ、記述は平易。

著作権法は19世紀にその基礎が作られている。その時代、著作物の複製を行うことができたのは、活版印刷機を持つ一部の業者のみだった。そこで1886年に成立したベルヌ条約は、著作物の利用ではなく、複製だけを規制している(p.52-63)。デジタル時代では誰もが容易に複製できるため、この前提が崩れている。もちろん、個人的・家庭内での複製は私的複製として例外規定が設けられている。それ以外の、事業として行うのではない著作物の複製(ネット上での複製など)は規制対象になってしまっている。事業として行うのではない利用も規制対象としているのは、知的財産法のうち著作権法だけである(p.83)。

ちなみに私的複製の例外規定は、いちいち権利者の許諾を求めると経済的に損失が大きいということでもあるが、何を私的複製したかに立ち入らないことで、思想信条の自由を保証している(p.36)。これはとても重要なポイントであると感じた。

デジタル時代における著作権法の規制の拡大に、映画業界や音楽業界が寄与したロビー活動、国際力学について本書は詳しい。こうした裏話が分かると、なぜ今のような状態になっているのか、とてもクリアになる。デジタル技術の進展を受けた著作権法の規制は、1990年代後半から始まる。これは、音楽業界におけるファイル共有との取り組みを見ていた映画業界が、ロビー活動に勤しんだからだ(p.128-133)。ところがアメリカ国内では図書館業界の発言力が強い。アメリカの図書館業界は著作物への自由なアクセスを保証する大きな力を持っており、日本とは大きな違いだ。これに対して、ハリウッドに代表される映画業界は、WIPOなどで国際基準を定めてしまう戦略に出た。図書館はアメリカ国内に限られるが、映画は国際的に流通している。国際基準制定の場には、図書館業界の力が及んでいなかった。この国際基準はアメリカ国内では悪名高いDMCAとして成立。しかし余波として、アメリカの基準が国際的に各国に押し付けられる形となる。その後の展開としては、WIPOも議論がオープンであり反対が起こるため、通商条約の形を取るようになった。通商条約(二か国間であれ、TPPのような複数国間であれ)の議論は基本的に秘密裡に行われるため、反対する勢力の介入を阻止することができる(p.133-138)。

ちなみにロビー活動による著作権法の改正は、アメリカだけの話ではないしエンターテインメント分野にも限定されない。例えば日本の著作権法では、データ分析のためのデータセット作成が例外規定とされている。「情報解析のための複製等」という例外規定だ(著作権法第47条第7項)。これは世界的に珍しい。データ分析を行う人のなかに、文化庁へのロビイングのパイプを持っている人がいた結果らしい(p.209)。日本はフェアユースによる一般例外規定ではなく、個別の規定を都度追加する形を取っているが、その弊害は発言力の強い人・団体による規定だけが認められていくことだ。

こうしてロビー活動で確保されたDRMなどのアクセスコントロールは、著作権と表現の自由を両立させてきた仕組みを崩してしまう(p.157-160)。個人による個々の著作物の利用が、コントロールされるようになった。例えば著者は、セキュリティ技術者とDRMの関係を取り上げる。DMCAにより、DRMによるアクセスコントロールの回避技術自体が違法になってしまった。これは従来では、ごく一部の危険なものにしか適用されてこなかったこと。セキュリティ技術者による、DRM技術のセキュリティホールの指摘が、回避技術を広めるものとして犯罪行為扱いされるようになってしまった。エド・フェルトン事件、スクリャロフ事件といった例が挙げられる(p.148-156)。これらは日本でもWinny事件に代表されるような間接侵害の事例でもあり、また著作物と学術利用の問題を提起している。

学術分野では、実験や調査結果のデータをいかに公開・共有するかが鍵となる。最先端の高価な機器によって実験を行う場合、国などからの補助が得られることが多い。そうした実験データは公開され、他の研究者にもアクセス可能であることが科学の進展に資する。すなわち学術利用とそれ以外を区別し、また基礎データと応用研究を区別して、基礎データの共有と応用研究の独占(特許など)という使い分けがなされるべき。欧米はこの方向だが、著者は日本の特異性を指摘する。2003年の小泉政権下の知的財産戦略本部は、アメリカのバイ・ドール法の日本版を時宜に合わず導入した。こうして基礎データにも独占が認められている。日本では、公的資金で行われたデータは共有されていない。結果、他の研究に活かされることが無いばかりか、サーバー維持費用の問題などから公的資金によって得たデータが破棄されている(p.180-184)。こうした状況で著者は、学術論文についてはサイエンス・コモンズの採用、データについては権利を放棄することを推奨している(p.195-202)。

著者はレッシグに学んだこともあり、フェアユースの話はかなり詳しい。それなりの分量をもって書かれている。だが少し長すぎてバランスを欠いているようにも見える。私の関心からは外れてしまった。フェアユースの利点と難点を書いておく。フェアユースの利点は3つ。まず、何がフェアユースであるか、裁判において柔軟な対応が可能。いちいち事前にすべてを規定しておく必要はないし、時代や技術の変遷にも合わせられる。さらに、事後規定によるイノベーションの促進。フェアユースであると事後的に認められる余地があるのであれば、リスクを取って新しいものを生み出す人も出てくる。最後に、立法にチャネルを持たない人のニーズの汲み取り。これはロビー活動に依存しなくなる結果。ただ、優秀な弁護士を雇う費用があるかどうかに依存してしまう気もする。難点としては、予測可能性が低いこと。事前にフェアユースなのかどうかを予測することが難しくなる(p.215-217)。
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