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小川さやか『都市を生きぬくための狡知』


アフリカ民俗学の博士論文が元になっている。しかし学術的な堅苦しさはあまりなく、極めて面白い。題材はタンザニア西部、ビクトリア湖に近いムワンザという都市における、零細商人たち。こうした零細商人は、現地スワヒリ語でマチンガと呼ばれている。語源は行商人(英語のmarching guy)から来ているようだ(p.3)。こうした人々は、経済基盤や商習慣の整った先進国からは想像もつかないほど異質な人々であることは、想像に難くない。だがこうしたビジネスは「さまざまなしくみや制度のもとで見ないふりとしている、そこかしこにも発見しうるアナザー・ワールド」(p.335)だ。

最高に面白いのは、著者が10年以上に渡って現地に溶け込み、実際にマチンガとなって古着を売っていたことだ。もちろん研究の一環として。20代の日本人女性は現地では15歳くらいに見えた。そんな少女に見える日本人が、ムワンザで現地語を操り、他のマチンガと同様に商売を行っている光景は異様と言える。当然、現地ではテレビや雑誌にも登場する有名人となる。つまり、人類学の古典的鉄則「調査地に空気のように溶け込む透明人間」は守っていない(p.43)。しかしだからこそ分かったことは大量にある。そもそもマチンガは、同類とみなさなければ本音など語らないだろう。

ということで本書には、整備された商習慣に浸っている自分などには思いもよらないビジネスの姿が描かれている。不安定な経済状況、政府や警察への対抗、取引相手と信用取引をしつつも信用しない仕組み、詐欺すれすれの機転を利かせながら難局を切り抜けていく姿。実に魅力的な人物たちが満載だ。既存の社会学の成果を踏まえた理論的定式化を飛ばして読んでも、極めて面白い。

本書の焦点は、マチンガたちが自分の商売に必要な資質とみなしている「ウジャンジャ」と、ウジャンジャがあってこそ成り立つ委託販売のような仕組み「マリ・カウリ取引」にある。マチンガの商売を始めるには、資本も技能も人的つながりも必要としない。すなわち、参入障壁の極めて低いビジネスだ(p.49-53)。また、マチンガに対する政府の態度が変化するため、不安定なビジネスだ。こうした環境で必要なのは、例えば長期的視野とかではなく、その都度変化する状況に対応して切り替えていく柔軟さ。不安定な状況を切り抜ける気概・勇気を持ち、チャンスを捉えてとりあえず「自分の運を試してみる」という「思慮深き機会主義」(p.64-66)。
日々の商交渉において互いの反応を見極めながら、機を捉えて自己の領域に他者を引きずり込んだり、突き放したりする綱引きのうえで、互いの力関係や親密性、依存と自律といったバランスを操作していくやり方は、話し合いによって、合意を形成する方法に比べて不確かなものであろう。しかし、マチンガは、その場その場の駆け引きのゆくえを開かれたものにしながら、目の前の他者と駆け引きする即時的な実践を繰り返していくことで、不安定な経済状況の変化に、柔軟に対応できているのではないだろうか。(p.252)

こうした不安定な状況における、その場その場での機転、狡知。それがウジャンジャと呼ばれるものであり、ウジャンジャこそマチンガとして生き抜くための資本だ(p.123-126)。ウジャンジャは考えて発揮するものというより、自然と発揮される。そうでなければ状況に俊敏に対応できないだろう。ウジャンジャはマチンガに限定されるものではない。例えば著者は、見た目が幼く、男性受けがいいのを本人も気づかずに自然に利用してマチンガたちの心に入り込んでいく。マチンガから、それが著者のウジャンジャだと指摘されている(p.132f)。日本語で言えば、人誑し、コミュ力が高い、機転が効く、取り繕うのがうまい、といった特性だろうか。ウジャンジャはまた、現地ではトリックスターの民話によって表現される。特にウサギやネズミが賢い動物とされる(p.18f)。ウジャンジャを前提とした人間関係とは、「互いに対して配慮しなくてもよいビジネスライクな関係と、互いに対する過度な期待を寄せあう関係との狭間」(p.187)にある。

例えば、マチンガたちの間ではお互いの本名すら知らない。相手が話さなければ、出自などを詮索することもない。銀行口座を開いたり、正式な雇用契約書にサインするわけではないので本名を名乗る必要性はほとんどない。あだ名のほうが仲間内で人物を特定しやすいし、あだ名の元となる特徴を変えれば容易に所属コミュニティを変えることができる(p.75)。ビジネス状況や、家庭の事情に応じて都市から都市、あるいは農村を職業を変えて渡り歩く。ビジネス機会を捉えて柔軟なリスクテイクを行うことがウジャンジャだ。

一方、マリ・カウリ取引とはマチンガと、その仕入先である中間卸売業者(その上には外国から商品を輸入していくる卸売業者がいる)との間で行われる信用取引、委託販売の仕組み。中間卸売業者はマチンガに商品の販売を委託する。たいていは一日二回、マチンガと中間卸売業者は顔を合わせる。その時、マチンガは委託された商品がどれくらい売れたかを申告し、売上を中間卸売業者に渡す。商売のうまいマチンガに中間卸売業者はグレードの高い商品を任せるようになる。売上が立たなかったマチンガに対しては、生活費の援助を行うこともある。

これはマチンガに極めて有利な取引だ。マチンガは売上申告を誤魔化せばいいし、売れなくても生活費の援助を頼み込めばいい。旗色が悪くなったら中間卸売業者を変えればいいし、最悪の場合は委託商品を持って逃げればいい。マリ・カウリ取引は契約書に基づくものでもないし、だいたい誰も本名や住所を知らない。それなのに、中間卸売業者たちは「何度持ち逃げされても、本名も出身地もきちんと把握していない人間に掛け売りで商品を販売し、また逃げられ、信用を踏み倒した人間が戻ってくると受け入れ、また掛け売りで商品を販売する」(p.ix)。

もともとマリ・カウリ取引の背景には、裕福な中間卸売商が小売商を支援すべきという、都市での疑似親族関係による相互扶助の再現が見られる(p.98f)。けれども、親族間ではこんなビジネスはできない。競争の激化、商品の値上がり、取り締まりの強化などによりビジネス環境が厳しくなっているので、マチンガたち小売商が商品を持ち逃げして信用を毀損しても仕方ない。それゆえ、信頼の置ける人とは逆にマリ・カウリ取引はしたくないのだ(p.102-107)。同様に、マリ・カウリ取引に変えて人を雇用するのは給料の保証など責務が大きく、不安定な市場ではリスクが高すぎる(p.288-294)。こうして何よりも中間卸売業者たちがマチンガを必要とするからこそ、マチンガ側に有利な制度が残っている(p.239)。実際、2003年以降、古着の一部輸入禁止、政府による小売店舗の整備、輸入関税の引き上げなどにより、マリ・カウリ取引は一度衰退し、現金取引や親族間の取引が主流となる。しかしマチンガたちはウジャンジャを駆使して、新たな形のマリ・カウリ取引を確立していった(p.225-249)。

こうして著者は単なる傍観者ではなく、自らもマチンガとして経済実践に入り込んでいった。そしてその実践を理論的、学問的に捉え直す。この往復運動の中で描かれる本書はとても面白い。著者が見るところ、先行研究では路上商人の経済実践そのものに関する分析が欠けている。路上商売が不安定にも関わらず続く要因を、商人自身の問題や資本の欠如、動機に還元すること無く、重層的なアクター間の力関係の中で捉え直すこと(p.254)。それが著者の狙いであり、十分に達成されている。

マチンガたちの商売は、「アフリカ諸都市では、ありふれた経済活動である。しかしそれは、現在のグローバル資本主義経済の内部(最末端)にありながら、通常の市場交換の論理では説明しきれないような活動であり、しかも経済活動という定義からも逃れるような人間の性の営みである」(p.2)。こうした経済実践の中には、たしかに、我々が見ないことにしてしまった生き生きとした豊かさがあるのかもしれない。
詩的な困難の訴えに応じて値段が変わること、担保や契約書がなくても売ってもらえること、自分より経済力のある商人と対等に渡りあえること、仕事や友人関係をいつでもやめたり再開したりできること、マチンガがーー月並みな表現だがーー生き生きと商売をしていること、そこには、経済が人間の相互依存のうちに成立していることを覆い隠し、人間相互のかかわりを客体化・制度化していく過程で、みないふりができるようになった豊かさがあった。この豊かさは、たとえば、現行の資本主義システムを批判するために人びとの道徳や慣習にもとづく異なった経済のしくみを提示すること、あるいは個人の自由や自律性を尊重するのか、それとも社会や共同体からの規制を重んじるのかを迫るような議論からは、みえてこないものではないかと考える。(p.332)

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