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信原幸弘、太田紘史編『新・心の哲学 III 情動篇』


シリーズ第三巻は情動について。どちらかというと認知に偏りがちな心の哲学にあって、情動をメインに取り上げたのはとても面白い試み。本書で取り上げられているのは情動とは何か、という一般論だけではない。一般論を扱っている論文は一つだけ。後は、誘惑と自己制御、先延ばし、自己欺瞞、妄想といった具体的で身近な事例。情動によって判断が左右されるような事例が、どのように説明できるのかを巡っている。

試みは果敢だが、いま一つの印象を受けた。認知とは違って、情動についてはまだ確固とした議論の積み重ねがないように思えた。認知では主要な論争があり、その論争にしたがってそれぞれの論者の立場が分類されるような議論状況。情動でも一般論ではそうした区分がある(生理学的反応説/認知説、生得主義/社会構成主義)。しかし個々の具体的なトピックではそうした感じは受けない。また本書でいう情動emotionは、感情feelingのこと。あるいは情動と感情の区別が無い。ルデューにしたがって情動と感情を概念的に区別している私には最後まで違和感が残った。感情とは情動の認知に基づくというジェームズの議論をそのまま受け入れられないのは確かだが、情動と感情の区別を無くしてもよいことではなかろう。

冒頭は情動の一般論について。まず情動についての生理学的反応説と認知説の対立を巡る。認知説とは、情動は世界の中の存在者(と主体が考えているもの)に関係しているという説。いわば情動は志向性を持つ。その代表的な論者であるソロモンの説について、著者は「共感せざるをえない」(p.56)とするのだが、残念ながらまったく共感できない。原因が分からない、なぜだか分からないが楽しい・悲しいといった可能性がなぜ排除されているのだろう。何についてか分からない、漠然とした不安を感じることは無いだろうか。ある種の薬物投与によって発生した、世界の中の存在者とは関連していない「悲しみ」について、著者は「原因不明の妙な感じ」(p.37)と書く。しかしこれがなぜ悲しみであってはならないのか。認知説とははじめから、認知が絡まない情動を考察から排除してしまっている(p.63f)ように見える。

ついでの論文は自己制御と誘惑について。ここでは基本的にカーネマンのシステム1とシステム2の二重システム理論から述べられる。システム1の情動的評価がもたらす誘惑を、システム2の知的評価により制御するという図式。自己制御とはシステム2によるシステム1の制御である。システム1はドーナツを食べた方がよいという評価をするが、システム2は健康のためレタスを食べた方がよいという評価をする。二つのシステムの評価が異なるとき、システム2による制御が行われる。この図式はそんなに自明だろうか?自己制御とはシステム2によるシステム1の制御だけなのだろうか。レタスを食べた方が健康的だという評価に逆らって、ドーナツを食べるのにはそれなりの逡巡があるのでは。それはそれで、システム2の評価を退けるという自己制御が必要であるように私には思える。著者の位置づけではこの時、システム2は働きを変えたのだという(p.76f)。意思とは、あくまでシステム2の決定した行為であると。いまひとつ納得しない。
情動が無ければ知的評価がそのまま行われるのかというと、そうではないようだ。前頭前野の腹内側部(VMPFC)の損傷は、情動の低下を引き起こす。そうした患者は、自己制御が不十分となる。システム2がシステム1を制御するにも、ある種の情動の関与が必要なのだ(p.81-84)。システム1に情動を割り振るのは無理がある。ここはやはりこのシリーズの認知篇にあった、心の三部分構造モデルが出てくるべきだろう。
自己制御を行う意志力の行使は、長くは続かない。これを説明するのに、二つのモデルが扱われている。有限なリソースがあるというバウマイスターのリソースモデルと、動機や注意が減ってシフトが起こるとするインズリヒトのプロセスモデル。どちらも一長一短であり、情動が果たす役割に絡めて本当は説明されるものだろう(p.97-107)。

先延ばしprocrastinationについての論文は、あまりまとまりがよくない。議論の内容はAndreouとWhiteによる論集に収められている論文から主に採られている。個々の論点が提示される一方、それらを整理した立場の違いなどは見えない。早く行った方がよいことを後回しにしてしまう、先延ばし(いわゆる学生症候群)は日常的にも身近で、しかも悩まされる事柄。それだけにやや残念。先延ばしは、意志の概念を前提とするという論点に納得。先延ばしはその時点での選好に従うことだから、合理的に見える。それが不合理に思えるのは、意志の弱さを考えるからだ(p.139)。

自己欺瞞の章は、このトピックについてメインで論じている著者によるものなので、とてもよい記述。自己欺瞞とは、あることを事実と知りながら、自分にそれを偽であると信じるようにすること(他、いくつかの要件を含む)。論点は構造上の問題、戦略上の問題、情動の役割、非対称性の説明の四つにまとめられる(p.168-172)。構造上の問題とは、あることを真とする信念と、偽であるとする信念、整合しない二つの信念を持っているように見えること。戦略上の問題とは、いかにして自分に偽であるように信じるようにすることができるか、ということ。さらには自己欺瞞には、何らかの要因で事実を認めたくないという情動が絡んでいるはずなので、どのような役割を果たしているか。最後に、両立しないように見える二つの信念は主体によって対等には扱われていない。その非対称性をどう説明するか。
自己欺瞞は一見不合理に見え、哲学的な問題を提起する。しかし自己欺瞞は日常心理学で有効な概念だ。ある人に自己欺瞞を帰属させることは、その人の行動を説明し、事後の予測を可能にする。パラドクスの始まりと捉えるのは哲学的視点である。ここでは、信念と信念の明示化が混同されているのかもしれない(p.181f)。信念とは行動の傾向性であり、矛盾したものが両立しうる。一方、同時に矛盾した信念を明示化することはできない。

最後は妄想について。これは空想のことではなくて、精神病などに起因する妄想のこと。偽、不合理な信念に固執すること。カプグラ妄想とコタール妄想という症状がメインに論じられる。こうした妄想には二重記帳(double bookkeeping)という現象がある。妄想を抱きつつも、そこから帰結するであろう行動を取らない。例えばカプグラ妄想では身近な人間が他人に入れ替わったという妄想を持つが、そこから本来の人を探しに行くとか失踪届を出すとかの行動は伴わない。これは妄想が信念であることに疑念を呈す(p.202-205)。信念は行動の傾向性であるから。
妄想については二要因理論が論じられる。これは妄想には二つの要因が必要だとするもの。一つは、妄想の内容を説明するような、知覚的・情動的な経験の異常(身近な人間に対する違和感など)。もう一つは、それを受け入れ、維持してしまうような異常である。だが第二要因については様々論じられるが、どれも一長一短であり合意されたものは無い(p.211)。第一要因についても、違和感や疎外感といった情動に類するものが関係しているが、これも妄想を抱いたゆえに違和感を持ったのか(つまり因果関係が逆なのか)、はたまた交絡要因によるものなのかも合意されていない(p.221-225)。まだまだ脳神経学的にも、認知心理学的にも、哲学的にも不明なことが多い論争状況のようだ。
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