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イマニュエル・カント『カント全集10 たんなる理性の限界内の宗教』


カントの理性哲学からする宗教の位置付け。タイトルは「端的に言って宗教は理性の限界内にしかない」ではなく「単に理性の範囲内からしか論じたにすぎない宗教論」の意味であろう。つまり全面的な宗教論ではないという遠慮がある。何に対する遠慮かというと、聖書神学を旨とする神学部。哲学者、というより大学の哲学部に属する教授が、宗教について語ることの慎重なエクスキューズが見られる(p.13-17)。

哲学者が論じる限りでの宗教は、理性宗教と呼ばれる。実践理性にもともと備わる道徳法則を基礎とする宗教だ。それに対して、理性宗教よりも広範囲の概念として啓示宗教が置かれる。こちらは宗教的に価値を置かれるものが、理性の内なる道徳法則だけでなく、外的に啓示によって「神」から与えられることを含む。とはいえ、理性宗教こそ宗教そのものなのである。つまり「たんなる理性の限界内の宗教は、本来宗教を形成するものすべてをふくんでいる」(p.302)。したがって単なる理性の限界内とはいえ、神学部連中の神経を逆なでするに十分だろう。
真なる唯一の宗教は法則以外には何もふくまない。すなわち無制約的な必然性を私たちが意識できる実践的原理以外には、したがって(経験的にではなく)純粋理性により啓示されているものとして私たちが承認するような実践的原理以外には、何もふくまないのである。教会にはさまざまな形式が、しかし等しくよき形式が存在しうるが、もっぱらこの教会のためにのみ法規が、すなわち神的なものと見なされる制定が存在しうるのであって、これは私たちの理性の純粋な道徳的判定から見れば、恣意的で偶然的なのである。(p.225)

歴史的には様々な宗教が存在して、福音書を初めとする教義や儀式、教会などの組織などいくつもの形態をとって現れている。しかしながら、そうしたものは歴史的、偶然的なものでしかない。必然的と認識される唯一の信仰は、理性に基づく純粋宗教信仰である(p.153)。宗教は一つしかない、複数あるのは信仰である(p.142-144)。教会信仰の経験的な規定や法規は歴史に基づいている。だが最終的には宗教はそうした規定や法規から解放されて、ついには純粋理性宗教が一切を支配するようになる(p.162)。イエス・キリストを原像とする道徳的完全性の理念はすでに理性の中に含まれているのだ。 この理念の存在は感性界に住む私たちには理解できないので、天から降りてきたといった方が事態を良く表現できる(p.79-81)。だがこうした感性的なものはあくまで補助に過ぎない。聖なるものは道徳的対象に違いなく、したがって理性の対象なのだ(p.184)。神の感性的表現は、偶像を作ってはならないという「理性の禁止に背くのである」(p.267)。

理性がなぜ宗教を必要とするのか。実践理性には道徳法則が備わっている。感性界に住む我々には、この道徳法則は義務として認識される。一方、「宗教とは私たちの義務すべてを神の命令として認識することである」(p.205)。では、神の理念はどこから来たのか。少なくとも道徳法則そのものからではない。「道徳は道徳自身のためには[...]宗教などをまったく必要とはせず、むしろ純粋実践理性により、道徳だけでやっていけるのである」(p.7)。

ポイントは、人間の意志が行為の選択において、行為の目的を要求するという「自然的要求」(p.10)、「人間の(ひょっとしたら他のすべての世界存在者の)実践的な理性能力には避けられない制限」(p.12)である。意志における行為の選択は、その行為をしたらどうなるか(結果)のみならず、なぜその行為を行うのか(目的)という観点からも評価される。道徳法則は義務として認識され、行為の選択に活かされるのだが、自然的要求として人間の意志はその目的を求める。道徳法則そのものには目的は存在していない。しかし、目的を求める意志の自然的要求によって、最高善という道徳の究極目的が持ち出される。

しかしこの最高善、世界における幸福の実現は、究極の目的であり、感性界の制限により実現不可能である。にも関わらず、道徳法則は意志にとってはこの実現不可能な目的を果たすような義務として現れる。「人間は、最高善という純粋な道徳的心術と結びついた理念を(...)自分では実現できないにもかかわらず、それをめざして努力するという義務に自らのうちで出会う」(p.186)、これは無理ゲーだ。実現不可能なことが命じられるのである。そこで、この目的を実現できるような存在者が要請されてくる、すなわち神だ。したがって神は、感性界の制限を受けず、道徳法則の目的である(と人間が置いた)最高善を実現できる存在者として持ち出されてくる。かくして、道徳から、行為の目的を求める人間の自然的要求を介して、宗教に至る。
[...]道徳法則のこのうえなく厳格な遵守が(目的としての)最高善を招来する原因だと考えられるべきだとしても、幸福にふさわしいことに一致するように、世界において幸福を引き起こすには、人間の能力だけでは十分ではないから、そうなるように配慮する世界支配者として、全能の道徳的存在者が想定されねばらないのである。すなわち道徳は必然的に宗教にいたるということである。(p.13)

したがって宗教は、あくまで人間(あるいは何らかの制限を受けた存在者)が、目的を求める要求を持っており(これがなぜかは論じられていない)、道徳法則の目的が最高善の実現であり、人間では最高善の実現が不可能である、という人間の事情によるものである。道徳法則そのものには目的はなく、したがって道徳法則そのものからは神は導かれない。ここから神は弱き人間の作り出したものにすぎないというフォイエルバッハの考えまでは、ほんの少しだろう。またカントが期待するのとは違って、ここからは神は唯一、全能であるというテーゼは出てこない。ここで要請される神は、最高善が実現できればよいのであって、それ以外の要素については何の要求もない。したがって最高善を実現できる存在者が複数であることに概念上の問題はないし、最高善を実現する以外の点で何かできないことがあったとしても問題はないはずだ。

そもそも、人間はなぜ道徳的に行為できないのだろうか。これは悪の問題である。カントは、人間を規定する素質を三つに分類している(p.34-37)。一つ目は動物性の素質であり、これは自然的で機械的にすぎない自己愛である。そのうちには自己保存、生殖、社会性への三つの衝動が含まれている。二つ目は人間性の素質であり、これは他人と比較して自分の幸・不幸を判定する自己愛である。平等、競争心、嫉妬などがそれに当たる。三つ目は人格性のための素質であり、これは道徳法則を尊敬する感受性である。いわゆる道徳感情を生み、道徳法則にかなった行為を選択する意志の動機となる。

これら三つの素質のうち、前二つは悪徳にも用いられる。第三の素質を持ち、道徳法則にかない最高善を実現するに向かう素質を持つ点では人間は善である。しかし、人間が善であるか悪であるかは決まっていない。「むしろ素質にふくまれる動機を格率のうちに採用するか否かに応じて(これは全面的に人間の自由な選択に委ねられていなければならない)、自分で善か悪になるようにしていくのである」(p.59)。つまり、善か悪かは人間の意志の自由の問題である。もし悪の根拠が意志以外の事情、他の存在者や感性界の制限、自然衝動にあれば、 自由の使用が自然原因による規定に帰せられることになる。その場合、人間は悪を選択したわけではない。悪は自由の問題であって、他の要因に求められてはならない(p.27f, 46, 54, 59)。

ということで、ではなぜ人間は悪を選択するのか?これは何らかの自然的要因によって、悪を選択するようになってしまう、という話ではない。普通に考えれば、生物としての自己保存欲求(自己愛)だとか、限定合理性だとか、生まれや育ちによる傾向性などが悪しき行為の原因となろう。しかしそういう話ではない。なぜ、人間は悪を選択する自由を持つのだろうか。つまり、悪は超越論的にどう可能なのか。

どうやら本書にはこの答えはない。というよりも、カントは悪の起源をあまり問題と感じていないようである。未開文明や国家間政治という例を挙げて、人間における悪の経験的な普遍性が論じられる。悪への性癖は人間本性のうちなる生得的な根元悪ということができる(p.42-45)。ホッブスの自然状態に比して、人間は根元悪により互いを腐敗させるような倫理的自然状態にあると言われる(p.128-133)。根元悪はすべての格率の根拠を転倒させるから根元的であり、自然的性癖だから人間の力で根絶させることはできない。しかし自由な行為者としての人間の中にあるのだから、根元悪に打ち勝つことは可能だという(p.49, 59f)。カントの論点はいかにして悪を克服することが可能か、ということにあって、そもそもなぜ悪があるのかということにはないようだ。準備草稿のなかには、この点についておそらく決定的な、論点を放棄する文言が見られる。
義務を遵守するに際しての不変の格率が徳である。義務とはしかし、行為がいやいやなされるかぎりにおいて、したがって法則違反への内的な性癖が行為に反作用をなすかぎりにおいて、行為へと道徳的に強制することである(このような主観的な障碍が、自由に根ざすものとして、それにもかかわらず、変わることなくよき格率の下で、いかにして可能なのかは、どう見てもこれ以上解明される必要はないし、また解明されえないのである)。(p.339)

あとの部分は、教会(歴史的教会ではなく聖霊に基づく理性的教会)という共同体による悪、キリスト教の諸典礼の位置付け、理性信仰の補助である歴史信仰の過剰さに対する警戒などからなる。チベット教やゾロアスター教などの、キリスト教以外の宗教に対する比較議論も多く、よく論じられている。キリスト教の話になるのは、もちろんカント自身がキリスト教徒だからだが、それ以外にも、聖書が「知られているかぎりのすべての聖なる書物のうちで、道徳的なことにおいて理性宗教ともっとも調和しうるような聖なる書物」(p.277, 287)だからである。

この点では、ユダヤ教が理性宗教にふさわしくないという議論が印象的。ユダヤ教では、戒律がすべて行為の外的な評価に関っており、キリスト教にあるような道徳的心術への要求がない。また、ユダヤ教は来世への信仰がない。来世の信仰は人間本性にある普遍的な道徳的素質によりおのずと生じてくるものであるのに。さらに、選民思想により全人類を共同体から排除しており、普遍的教会を目指していない(p.167-170)。とはいえ、イエス・キリストを信じないのならば救われない、とする限りキリスト教も普遍性の面で大差ないと思う。

道徳法則自体に神の理念が含まれず、制限された存在者の事情に拠っている点で、カントの理性宗教はすでに宗教の基盤を掘り崩してしまっているように見える。哲学者の論じる神学という留保はあるものの、キリスト教の諸概念を基本的に前提としていて、批判的踏み込みは甘いと感じる。キリスト教という独断のまどろみを破るには、やはりニーチェを待たなければならない。
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