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井筒俊彦『意識と本質』


むしろ積極的に、意識を超えた意識、意識でない意識をも含めた形で、意識なるものを統合的に構造化しなおそうとする努力を経てはじめて新しい東洋哲学の一部としての意識論が基礎付けられるのであろう。またそこにこそ東洋的意識なるものを特に東洋的意識論として考察する意義がある、と私は思う。(p.101)

ユダヤ、イスラム、インド、中国、日本の各思想を縦横無尽に渉猟。事物の本質とそれを認識する意識、という構図に各思想を類型化して位置づける。ほぼこの著者にしか不可能な試み。その読解の成否については読む側の力が到底及ばないので不明だが、切れ味の良い文体とともにとても分かりやすい議論となっている。

日常的意識において事物を認識するときには、その事物は何らのものとして認識されている。例えば、花は花として。この「何らかのもの」に当たるものが本質と呼ばれる。志向的対象の意味。こうして、日常的には世界は本質を伴った事物に分節されて認識されている。しかしこうして分節されない世界とはどのようなものか。日常的には、花を木として認識したら、それはただの誤りである。あるいは、本質による分節ができなくなってしまえば、何らかの病気である。例えば、有名なサルトルの『嘔吐』におけるマロニエの根の話は、そうした本質を規定する以前の絶対無分節の存在に対する恐怖だ。しかし、こうした非日常的な存在に直面しても狼狽しないだけの準備が東洋哲学にはある。日常的な意識、表層意識の次元に現れる事物を、それ以前の意識、深層意識の地平において眺めることができる(p.15f)。

大乗仏教に見られる思想は、日常的に分節される事物の本質をむしろ否定するものだ。『般若経』から龍樹を経て、唯識に至る存在論のテーゼ。すべては移ろいゆくものであり、意識に映じているこの世界は仮構のもの。初めに物が本質を持っているのでなく、縁起的事態がまず経験的に成立し、意識はそこに本質を分節している(p.22)。大乗仏教の形而上学は本質を認めないが、実在をまるっきり夢幻と考えるのではなく、縁起という実在性を認める(p.24f)。

本質を否定する点では大乗仏教と同じものの、その先に移ろいゆく縁起ではなく絶対的存在に到達する、シャンカラの不二一元論のような思想もある(p.26-29)。一切の存在者に共通する絶対唯一の「本質」、形而上学的絶対有。すべての存在者はこの絶対無分節者が様々な境界線で分節されて現れたもの、というどことなくスピノザ的な考え。また、絶対無分節者からすべてを説明するのでなく、個々の事物と絶対無分節者を別個に立ててその関係を論じれば、イブン・アラビーのような思想となる(p.29-32)。

本質、ということで理解されるものは、実は以上のようなものとは別にもう一つある。それは、事物をその個物、まさにこのものとして分節する個体本質。本質とはその事物が何であるか、つまりその事物の同一性を規定するものなのだから、類概念・普遍概念によって規定される類的同一性に対して、個体本質は数的同一性を規定するものだ。中世哲学ではスコトゥスのhaecceitasとして有名な概念。著者はイスラム哲学から、普遍概念のマーヒーヤと個体本質のフウィーヤという対を取り出す(p.40-61)。

個体本質は個物を類的に規定せず、このものそのものに没入する視点をもたらす。他でもなくいまこの瞬間に、なぜこの事物が開示されているのか。著者は個体本質についての思考を詩人に見ている。リルケ、芭蕉、マラルメが論じられる(p.50-61, 74-80)。詩人以外でも、本居宣長のもののあはれが論じられる。本居は、物の本質をその類、普遍から論じる中国の宋学を「さかしら」と論難しつつ、物そのものを非概念的に直観的に把握することを説いた(p.34-38) 。

さて本書の提示する構図は、こうした本質に関する思考から、特に普遍的本質、マーヒーヤについての肯定的態度を3つに類別するものだ。個体本質、フウィーヤの話は散見されるものの、メインの論題ではない。さらには、普遍的本質に対して否定的態度を取る大乗仏教の存在論もメインではない。普遍的本質を肯定する3つのタイプは次のようなもの。第一のタイプは、普遍的本質は実在するという態度。実在するといっても日常的な意識が思うような形ではなく、事物の深層に実在するとする。日常的な表層意識を剥ぎ取った、深層意識においてこの本質は把握されると考える。宋学の「格物窮理」がこのタイプとされる。第二のタイプは、同じく深層意識において本質が把握されるとするが、それは第一のタイプのように理知的にではなく、非理知的、象徴的に、元型archtypeとして把握されるとする。イスラム神秘主義、ユダヤ教神秘主義のカバラー、易経、密教のマンダラなど。本書はこの第二タイプの論述が分量を占めている。第三のタイプは、形而上学的一般者、絶対存在としての本質を認めるものの、その直接的把握は認めず、日常的な個物から理論的・概念的に把握されるとするもの。このとき、本質はほぼ概念に転じる。儒学、特に孔子の正名論、古代インドのヴァイシェーシカ派が挙げられる(p.71-74)。西洋哲学の基本線もこの第三のタイプだろう。

第一のタイプとして広範に論じられるのは禅、とりわけ日本の禅の存在論。そしてこの部分が本書のもっとも面白いところだろう。周知の通り、禅では日常的な表層意識に映じる世界を否定する。禅の公案にあるように、ときにはあからさまに矛盾した言葉を用いて、日常的な存在理解を破壊しようとする。道元は、分節は人間がその感覚器官と言葉の文化的制約でそう分節しているだけであり、存在は本来は限りなく自由なものだと述べる(p.177f)。禅が意識による通常の本質的存在分節を否定して開く世界はカオス的だが、そこには本質ではない形での存在分節がある。その都度、分節される無分節な存在を見る(p.117-139, 391-404)。先のシャンカラの不二一元論に近いのだろうか。一つのポイントは、この無分節の覚知が理性的な理解ではないこと。意識そのものの、ある根本的な次元転換を予想する全人間的了解である(p.154f)。また禅は、無分節の存在に到達して終わるのではない。そこから日常的な意識に戻ってくる。すなわち、禅の実在体験の三段階(未悟→悟→已悟)。まず日常的な、表層意識における有本質的分節がある。ついで、日常世界を否定し去った先に無分節(純粋なノエシス)を見出す。最後に、見出された無分節者が世界を成り立たしめているという、無本質的分節(無分節者の全体顕現)の把握。悟りを経て日常世界に戻ってきた時、禅は山が「山のごとく」ある、「山に似たり」してある、と捉える(p.142-180)。

第二のタイプは、ある種の人間の深層意識に生起する元型イマージュのうちに、事物の本質の象徴的顕現を見るもの(p.180-293)。カントの構想力につながる問題領域が見えよう。ここでいう元型とは、人の深層意識領域に根源的イマージュの形で自己を開示する本質(p.213)。ユングの集団的無意識も元型的イマージュの一つだし、さらには易経での元型は八卦(p.205-213)。こうしたものは、古くシャーマニズムに見える。シャーマニズムそのものは神話創造的であって、哲学的な思想ではない。古代中国の思想においては荘子がシャーマニズムの地盤から出発し、哲学的思考へと進んだ。 さらには空海などの密教的仏教、ユダヤ神秘主義、カバラ、イスラム思想のスフラワルディー系の照明哲学などが挙げられる(p.199-201)。こうした元型は、世界を生み出す根源的な要素、意識・存在の創造的エネルギーのもっとも原初的な、第一次的な凝集点が形象的に提示されたもの(p.245)。この凝集点を、著者は「コトバ」と呼ぶ。例えば易経では八掛が様々に組み合わさったものとして、この世界は現成すると捉えられる。空海は深層意識において、存在者の分節をもたらす究極的な真なるコトバ、すなわち真言を見出す(p.229-234)。さらには著者は、ユダヤ教神秘主義のカバラーに深く入り込んでその構造を明らかにする。カバリストは、ヘブライ語の子音に、人間の言葉とは別の、神のコトバを見る。子音だけからなるヘブライ語聖書は神のコトバを記したものであり、それを読解することによって世界の秩序を知ろうとする(p.235-244)。子音のそれぞれに、想像的イマージュが割り振られる。そうした神のコトバに基づいて世界が生成していくる。むしろ、神すらコトバから生成する、すなわち神の内なる神以前の無から神が流出する。セフィーロートは流出段階の内部構造である(p.257-280)。

第三のタイプは、簡潔に論じられる。これは経験的世界の事物を規定する普遍者が実在するとし、理知的にそれを把握する。プラトンのイデア論が典型であり、また孔子の正名論、インドのヴァイシューシカ派が挙げられる(p.293-317)。孔子は永遠不易の普遍的「本質」の実在を謳う。その実在を正しく把握し、言葉を正しく使用すること。名と実を合わせ、正しい名(正名)を用いれば、社会秩序の安定ももたらされる。こうした孔子の正名論に対して、荘子の批判が対峙される。荘子によれば、世界の存在は流動的で不定であり、永遠不易の本質など認められない。著者は、孔子と荘子のこの対立は、同じレベルのものではないという。孔子は日常的な、表層意識における存在分節のレベルでの本質を見ている。表層レベルでは本質は確定しており、存在者はきちんと分節されている。荘子は深層意識における無分節のレベルから本質を論じているのだ(p.304-309)。

およそ6年半ぶりの再読だが、すっかり忘れていて新鮮な気持ちで読んだ。良いことなのか、悪いことなのか。ともあれ、今年はこの著者の本を多く読んでいくことにする。
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