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金谷治『中国思想を考える』


中国の思想のうち主に儒教と道教について書かれた一冊。中国思想の発展の歴史をたどることによって解説する本ではない。中国思想に見られる5つの特質を取り上げることによって、中国思想の独自性を明らかにしようとしている。この5つの特質とは、合理主義、 対待、中庸、死生一如、天人合一。

おそらく一般向け講演をもとにして書かれた本のようで、とても平易で分かりやすい。歴史的経緯は追わないものの、中国思想の特徴がうまく明らかになっている。それぞれの章はもともと別々のものだったようで、それぞれの扱い方についてはやや統一感を欠いている。 何よりも本書の特徴は、ただ中国思想の歴史的意義を明らかにするのではなくて、それを我々が現代にどう活かしていけるかを考えようとしていることだろう(p.22)。基本的には西洋の思想、あるいは科学的合理主義に支配されている現代の世界において、中国思想は何をもたらすことができるのか。著者のやりたいことはここにあるが、それはともするとややオルタナティブ思想に陥っているようにも見える。

現在の世界に活かすことのできる中国思想の特質とは、著者の見るところ、儒教的合理主義と中庸主義である(p.24-30)。合理主義と言っても、非合理的なもの(非科学的なもの)を含むすべての物事を合理的に判断していこうという態度ではない。それはむしろ西洋的な合理主義として位置づけられている。儒教的合理主義は、非合理的なもの、孔子の言う「鬼神」を端的に否定するのでなく敬して遠ざける。非合理なものについてはあいまいな態度を取る。無知の知、すなわち知らないものは知らないとし、自分の知と不知を区別できることこそ儒教の合理主義だ(p.73-91)。

このような儒教的合理主義態度は、おそらく中国思想のもっともも根本的な特質、すなわち現実主義に立脚している。 中国の人々にとっては、目で見たり耳で聞いたりして感覚でとらえることのできるこの現実世界が何よりも尊重された(p.53f)。この世界と断絶した神の世界、死後の世界は重視されず、いまこの世の中においてどのように生きていくべきかが、いつも問題とされてきた。
一番大切なのは現実に生きているわれわれ人間です。中国思想はそこをおさえていると言ってよいでしょう。人生問題を中心にして、具体的現実を離れない形で人間がいかに生きるべきかを問いつづけてきたのです。(p.58)


このような現実主義的傾向は儒教に限ったものではない。一見すると道教は生の問題を離れて議論してるように見える。しかし著者によれば、儒家は死の問題を生の問題に含め、生きている間の人生問題だけを説いている。一方、荘子は万物斉同から、生死を一連として死に捕らわれないことを説く。どちらも、死を恐れることからの解放をうたっていることには変わりないのだ(p.179)。ちなみに、この現実主義は仏教の空の思想や出家はなじまず、仏教受容において大きな影響を与えている(p.44-48)。中国での悉有仏性論の成立には儒教の性善説と密接な関係があって、楽天的な人間尊重の立場で共通するものがある(p.36f)。

このような儒教的合理主義の感覚は現代の我々にも生きている。例えば、人事を尽くして天命を待つといった言い方にそれは現れている。こうした、不確定な未来を天命と考えるのは現代の感覚にも通じるものがある。ここに天人合一の思想がある。儒家の言う天は倫理的法則性。道家の言う天は自然の存在の理法。この二つの違う「天」の概念は、秦の始皇帝の前後に新しい儒家が復興を図って道家の天を取り入れるにあたり一つとなる。漢の時代の董仲舒において天人合一は正統とされ、誠の概念に発展していった(p.206-213)。

こうした儒教的合理主義は、明らかに西洋的な合理主義を補完するものとして位置づけられることになる(p.91)。天人合一の思想も、人間の行き過ぎを制御するものとされる(p.224-228)。環境問題や、遺伝子操作の問題に直結している。孔子において知は仁を達成するための前提手段であり、仁よりも知が優先されることはない(p.68-73)。知の理性的働きはおのずから制限される。儒教的合理主義の「特色は、理性主義の道を直進することを避けて、人生の価値を実現するために、現実を観察し経験を考えあわせて、理性自体が自らを制御しながら、前進する」(p.88)ことにある。

もちろんこうした仁、あるべき人生といったものが、現代の世界において合意可能だとは容易に信じがたい。孔子の時代においては、周の時代という容易に参照可能な例があったからこそだろう。こうした参照点を持たない現代では難しく、儒教的合理主義からいったい何がもたらされるのかはよく分からない。反科学的蒙昧主義にならないといいが。

対待の思想は、物事の両面を複雑に見ようとする。単純にどちらかに割り振るのではなく、折り合いをつけて物事の両面を考える(p.93-97)。一見矛盾しているように見えるが、中国のように言語の通じる範囲が広く多様な意見が乱立するなかならではだろう。著者は毛沢東の著作も引きつつ、現代中国においてもこの考えが活きていると見る。毛沢東の著作『矛盾論』では対立するものの一方と他方が両方成立することが説かれている(p.114-117)。この話は、著者の中国での個人的体験も引かれ、印象論も多くてだいぶゆるい。

中庸の思想は、和であり、同ではない。対立意見を無きものにするのでなく、対立を認めたまま調和させること。日本は「和を以て貴しとなす」と言いながら、目指しているのは同である。同は全会一致であり、意見の対立を認めない。和は互いの意見が対立していることを認めつつ、調和を図る(p.150-155, 160-162)。中国政府の方針は絶対であり、地方はそれに調和するように進む。しかし地方では実情に合わせた二重行政が行われていたりする。こうしたところに和の一つの形を見ることができよう。あるいは、民主主義の理想は一つの和の形。著者が言うように、中庸の思想は古代ギリシャに通じるものがある。
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