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トルケル・フラーセン『ゲーデルの定理』


こうした文章に「論理的に言って」のようなフレーズが含まれていることは、不完全性定理に触発された頓珍漢な推論の多くがもっている注目すべき特徴である。(p.144)

不完全性定理についてありがちな誤解を取り上げることによって内容を解説した一冊。内容は論理学的にしっかりして記述となっている。まず第一不完全性定理、第二不完全性定理について内容を確認した後、よくある誤解がなぜ間違っているのかを解説する。それらは初等算術理論以外への不完全性定理の拡張、無矛盾性証明が体系内で不可能であることからする数学への懐疑、無尽蔵性と「人間は機械ではない」というルーカス、ペンローズの主張、そしてチャイティンの不明瞭な主張について。

著者はゲーデルの不完全性定理の誤解についてインターネット上で収集しているらしい。そのためどのような誤解がよくあるかを把握している。本書は十分専門的な議論が展開されているので、 例えばそもそも形式的体系ではない聖書、合衆国憲法、アイン・ランドの哲学などに不完全性定理を適用しようとする人が、本書を読んで理解できるとは到底思えない(p.107-111)。

そもそも不完全性定理が適用できるのは理論の算術的部分についてのみであって、この定理はそれ以外の部分ついて何も述べることはない(p.38f)。通俗的には不完全性定理はある程度の複雑さを持つ体系に当てはまると言われる。著者によれば、問題は体系の複雑さではない。問題は算術を表現しているかどうかであり、複雑な体系でも不完全性定理を適用できない体系も存在する(p.31f)。一方、算術自体の複雑については本書はやや曖昧にしている。不完全性定理が適用できる算術体系ついてロビンソン算術という言葉は出てくる(p.191f)ものの、例えばプレスバーガー算術には適用できないということは書いていないし、適用できるかどうかの境目が何に由来するのかについては書いていない。正直言ってこのレベルの議論が論理式なしに進むのはかなり理解が苦しい。

不完全性定理の証明において、Σ健全性が重要な役割を果たしてることが強調されている。 特に、偽であるπ^0_1文(本書ではゴールドバッハ類の言明と書かれている)は、基本的な算術を含む任意の理論において反証される。したがってそうした理論でπ^0_1文が決定不能であれば、その文は真であるということになる(p.30f)。つまりπ^0_1文については、例えばPAで決定不能だという証明があれば、それが真であることの証明となる。あるいは、解を持つディオファントス方程式の計算的枚挙不可能性とΣ健全性を用いて、第一不完全性定理の証明から自己言及の要素を除いている。すなわち、非可解なディオファントス方程式の集合は決定不能ということを使えば、ゲーデルの第一不完全性定理は自己言及文や構文論の算術化なしに証明できる(p.101-103)。不完全性定理と嘘つきパラドクスを過度に関連させる解説の多い中、よいポイントだろう。

本書の問題は何よりも真理の概念にあると思う。言明が真であるとは何のことかについて本書は基本的に曖昧にしている。真理述語について出てくる話は引用符の解除が主(p.40-44)。モデルのドメインや付値を用いたモデル論的真理概念は後になってから出てくる。 これは著者のポリシーがあるようだ。著者は、算術や集合論において何が成立するのかについて、我々は理解しているのだとしている。つまり算術言明の真理について述べた時に、それが標準モデルで真であるということはことさら言う必要がない。それを必要と考えるのは論理学の風に当たりすぎた結果だとしている(p.187)。とはいえ、ことさら論理学の風が吹き荒れている本書においてはこれはあまり良くないのではないか。 例えば「偽である公理」(p.153)といった言い方は、一見すると困惑を生んでしまう。メタレベルの真理を素朴に信頼せず、きちんと議論をしてほしかったところ。

無矛盾性証明が体系内でできないことから、数学の無矛盾性はどうあっても示せないのだと悲観的な議論をする筋がある。本書はこの点の議論を尽くしている。ある体系の無矛盾性を示そうとして、別の体系で無矛盾性証明を行った時、それは信頼の置ける体系内でなされる通常の算術的証明にすぎない。それは無矛盾の疑念を減らす目的で行われているのではなく、あくまでただの算術的証明であり、数に関する他の算術的証明と性格は何も変わらない。不完全性定理から数学の正しさへの疑念をもたらすのは、普通の数学一般に対する疑念でなければ意味をなさない(p.155)。第一不完全性定理はヒルベルトのnon ignorabimus(原理的に知り得ないものは数学には存在しない)の楽天的な見方を否定するものではない。単一の形式体系では不可能だということにすぎない(p.22f)。

ランダム性を用いたチャイティンの議論は、それ自体が錯綜したよく分からない議論であること、および私自身よく知らないことから、よく分からなかった。公理からの推論に基づかずに、真であるかどうかが偶然に決まるチャイティンの主張に対し、著者は疑義を述べている(p.199-208)。チャイティンの主張はむしろ、「ランダム」という語を取り巻く一般的な連想に基づいている(つまり、連想ゲームにすぎない)のではないかと。
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