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スティーヴン・トゥールミン、アラン・ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』

ウィトゲンシュタインのウィーン (平凡社ライブラリー)ウィトゲンシュタインのウィーン (平凡社ライブラリー)
(2001/03)
スティーヴン トゥールミンアラン・S. ジャニク

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世紀末ウィーンの文化背景を描いた名著。文学、音楽、思想、建築、絵画、物理学に渡る知見が縦横無尽に展開される。
よく知った分野だと紋切り型の紹介に思われたりするところもあるが、よくぞここまで書いたものだ。

いまとなっては古さも目立つ議論だが、ウィトゲンシュタインを英米哲学から切り離しすことに大いに役立った著作。
「オーストリア哲学」というカテゴリーさえできた現在から見ると、どのような評価になるのだろう。

amazonに読書記掲載。
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この本が出るまで、ウィトゲンシュタインは論理実証主義もしくは日常言語学派の関わりで読まれてきた。つまり、英米哲学者としてのウィトゲンシュタインだった。この本は、その潮流に抗して、ウィトゲンシュタインを彼が育った19世紀末ウィーンに送り返す。その知的背景の中で、ウィトゲンシュタインの哲学的問題、著作のスタイル、奇妙な生き様の意義を解明していく。

本書はウィトゲンシュタインの著作を読み解くのではない。その背景にある、19世紀末ウィーンの知的風土を描くものだ。論じられる範囲は、思想から始まり、社会評論、文学、音楽、建築、絵画、物理学にまで及ぶ。非常に広い知見だ。それらの知見から、ウィーンの知的風土を描き出していく様は、見事である。

まず後期ハプスブルク朝ウィーンの社会風景が描かれるところから始まる。問題を先送りした政治体制と、人々に広まる退廃的空気、耽美主義。そこから、身を引き離そうとして模索する文化人たちが現れる。鍵となるのは、社会風刺家カール・クラウスだ。著者によれば、ウィトゲンシュタインはクラウス主義者なのである。同じように建築家ロース、音楽家シェーンベルク、作家ホーフマンスタールが論じられる。

ついでウィトゲンシュタインにとって、なぜ言語がまず重要であったのかが解明される。鍵は思想家フリッツ・マウトナー、そして物理学者マッハである。ウィトゲンシュタインは彼らのなした言語批判を批判する形で、自らを形作っていく。ここで彼の前期の主要概念「論理空間」が、ヘルツとボルツマンに求められている。ここは大きく興味を引かれる論点だった。(ただし、現実そのものではなく現実の可能性を示す数学的モデルというアイデアであれば、同時期の非ユークリッド幾何学に関する論争が扱われるべきだろう。本書にはなぜか、数学についての話題が欠如している。)

これにショーペンハウアー、キルケゴール、トルストイに見られる自然科学的理性と倫理の厳密な分離が加わる。カントを徹底させたこの区分は、倫理を理性的に語ることのできる領域から区別する。こうして、『論理哲学論考』の問題圏が開かれる。

以降は、後期ウィトゲンシュタインも依然として世紀末ウィーンの知的風土の中にあったことが語られる。そして、ウィトゲンシュタインがなぜ誤解されたかについて語られる。結局、ウィトゲンシュタインは第一次世界大戦前の問題意識でもって、戦後の人たちに語りかけていたのだ。だから、誤解されるのも故無きことではないのである。

もちろん、文化の一般的風景を描いていく本書は、個々の話題については深く掘り下げない。当該の話題に詳しい人が読むと、やや浅い記述と感じる箇所もあるだろう。しかし本書が描くウィーンの知的風土はきわめて鮮やかである。本書を読む人は、当時の人々がどんな問題意識を持ち、何と格闘していたのか、ありありと感じることができるだろう。そしてこれは、単なる歴史の一幕ではない。著者たちが言うように、世紀末ウィーンの風景は一つの極端な例であって、その要素は我々の現代にもある。どことなく退廃的な空気が流れる今の世界において何をどう考えていけばいいのか、得られるヒントも大きいのである。
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