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マイケル・ガザニガ『脳のなかの倫理』


脳神経科学者が生命倫理の問題について語ったもの。脳神経科学はその発展によって、意識、人格、知能といった領域に示唆を与えつつある。著者の主張するところ、これからの生命倫理はそうした脳神経科学の結果を踏まえていかなければならない。著者は脳神経倫理学を、病気や正常、死、生活習慣といった、人々の健康や幸福に関わる問題を、土台となる脳メカニズムの知識に基づいて考察する分野としている。脳神経倫理学は治療法を模索するものではない。脳から得られた知見に基づく人生哲学を模索する研究分野であるという(p.16)。

扱われているトピックは、まず人の生死の境界線である、胎児の人格の成立期と老化による人格の消失。そしてデザイナー・ベビー、薬による知能の改善。さらに自由意志と責任能力の問題。そして宗教の起源と人類共通の倫理について。

どの話題についても脳神経科学における実験や理論などが扱われている。生命倫理の議論そのものの多くが、科学技術によって可能になったために発生してくる問題でもあることから、科学技術によって何が可能であるかという情報は本質的だ。こうした話題は豊富な本だが、書かれている倫理学上の見解はあまり深みがないという印象を持った。生命倫理の諸問題に回答を与えようとした本ではない。あくまで情報提供や議論の整理、またエッセイ的に書かれていると考えたほうがよいかもしれない。

科学技術は異常なものを作り出してしまうようにイメージされる。著者によれば、科学が掻き立てる不安は、こうした異常なものが作り出されるかもしれない、というものではない。むしろ、科学によって自分という存在への見方が変わることへの恐れだという(p.19)。そして我々はこうした見方の変化にはやがて順応するのだろう。本書には基本的に、楽観論が溢れている。例えばデザイナー・ベビーの問題については、たしかにそうした試みをする人はいるだろう。しかし、たいていの人間は賢明であり、生命倫理が危惧するようにはならないという(p.87-89)。さらに、知能を増強する薬(記憶力の増強とか)については、それが普及しても、我々はそれに合わせて価値観を変えていくだろう。いま何かの規制などが必要なわけではない、という(p.125f)。こうした議論はあまり支える議論なしに出ている。

ニューロンの絶縁物質であるミリエンの減少が生み出す脳の老化(p.51f)に対しては、安楽死を認める。安楽死を選択できるような社会があってもよいだろう、と(p.63f)。ここもあまり議論がない。さらに自由意志の問題については不満が残る。自由意志の問題を論じ始めるが、いつの間にかそれは責任概念に置き換えられる。そして責任概念は社会的に決まるものと締められる。自由意志の問題についての著者の意見は追えないし、また責任概念が自由意志をどう我々が認めるかと独立に社会的に決まるとも思えない(p.143-147)。

人間の脳は信じやすきもの。信念の形成について著者は思い入れがあるようだ。宗教体験や幻聴を側頭葉てんかんと関連付けている。著者によれば、パウロやムハンマドなど偉大な宗教指導者には、側頭葉てんかんの徴候が見えるという。しかしながら、ゴッホやドフトエフスキーといった芸術家にもこの徴候は認められるとしており、結局何を位置づけようとしているのかは読めない(p.216-219)。

なお、私たちの認知的社会的枠組みと無理なく調和する宗教的概念ほど生き残る、として三位一体論を取り上げている。神を人と考えたから、三位一体論は2000年も残ったのだと(p.213)。極めて複雑な、三位一体論の成立過程を考えれば、そう簡単な話ではなかろう。また逆に、認知的社会的枠組みに収まらないものこそ、すぐれて宗教的に位置付けられるとも言えないか。神を人と考えることを避けるユダヤ教やイスラム教はどうなのか。人間と似たものとは考えられていない、「天」の概念をもつ儒教はどうなのか。それらは明確に生き残ってきたのであり、おそらく逆に、そうした宗教的概念が我々の認知的社会的枠組みを規定することもあるのではないか。

著者は、「道徳上の問題で難しい選択を迫られたとき、すべての人間が生物として同じ反応を示す、つまり人間の脳にはある種の倫理観がもともと組み込まれているという考えを私は支持したい」(p.21)と書く。すべての人に共通する道徳性を判断する脳内プロセスがある。これは無意識に働いて、物事の善悪は我々に本能的に感じられる。アダム・スミスの道徳感情論みたいな議論だろうか。しかし我々は道徳律が正しい理屈を考えたがるため、倫理の議論は混乱する(p.231-234)。

とはいえ、生物的に同一の倫理を感じる脳内プロセスの存在は、あまり納得できない。人種、文化、そして時代を超えてすべて共通する倫理感が存在しうるのか。その内容は何なのか。どういうものがそうなのか、私にはよく分からない。それは硬直した命題ではなく、「状況に応じて決まり、感情の影響を受け、私たちの生存の可能性を高めるために作られた倫理」(p.240)だそうだが、それはどういうものなのか。私たちの生存でいう「私たち」とは、個体なのか集団なのか種なのか。人類共通の倫理というものが個別的倫理命題でないとしたら、状況から倫理を導出する倫理構成能力みたいなものなのか。だとすると、状況が違えば倫理も違ってしまうが、それがどのような点で人類共通だと言えるのか。倫理は普遍性を主張するものではないのか。むしろこれらを追究するのが脳神経倫理学の課題なのか。
私たちは、人類共通の倫理が存在するという立場に立って、その倫理を理解し、定義する努力をしなければならない。信じ難い考え方であるし、一見すると荒唐無稽にも見える。だが、ほかに手立てはない。世界について、また人間の経験の本質について、私たちが信じていることは実際には偏っている。また、私たちが拠り所にしてきたものは過去に作られた物語である。ある一面では、誰もがそれを知っている。しかしながら、人間は何かを、何らかの自然の秩序を信じたがる生き物だ。その秩序をどのように特徴づけるべきかを考える手助けをすることが、現代科学の務めである。(p.241)
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