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油井正一『ジャズの歴史物語』


古き名著。ジャズの歴史について、ダンスなどエンターテイメントとの関係、人種問題、政治や戦争の問題を絡めながらも、極めて平易に見通しよく書いている。複雑なジャズの歴史を鮮やかに描写。特にアメリカから離れた視点をもち、アメリカ内ではとても書けないであろう、人種問題との絡みなども扱えている。

ニューオーリンズで始まったジャズを前期。スイングからビ・バップまでを中期。モード・ジャズからフリーへの移行を後期。それぞれ1910-1930、1930-1950、1950-1970くらいの年に当たる。本自体が1972年刊、実際の執筆はそれより前の雑誌連載。よってオーネット・コールマン、コルトレーンがフリーを始めたあたりで本書は終わる。エレクトリック・マイルスやハンコック、コリア、フュージョンへの展開は少し述べられる。もちろん、VSOPやジャレットなどのスタンダードの回帰などはない。

曰く、ジャズの歴史には3つの大変革があるという。ルイ・アームストロングのジャズ界制圧、ビ・バップの発生、オーネット・コールマンの出現だ(p.93, 292)。ただ、サッチモに代わってチャーリー・パーカーを挙げている箇所もある(p.203)。なかでもオーネットの記述は目を引く。オーネットはジャズにフリーを持ち込む。その音楽は突然現れたものであり、「誕生以来、ひたすらヨーロッパ音楽寄りに同化を試みてきたジャズが、その存立の根本を問われた一瞬である」(p.203)。

そもそもジャズは20世紀の初めころ、ニューオーリンズの黒人ブラス・バンドから起こっている。解放後、自由市民となった黒人は音楽が充満しているこの町ニューオーリンズで、南北戦争(1861-65年)で敗れた南軍軍楽隊が残した楽器を安く手に入れ、ブラス・バンドを組織し、アルバイトとしてかせぐ手段を考えついた(p.14)。ここでクレオールとの関係が書かれるのが、とても興味深い。ジャズはアメリカにおける黒人とヨーロッパ音楽の出会いから生まれている。このヨーロッパ音楽は、実は白人がもたらしたものではない。人種差別の激しかったニューオーリンズで、白人と黒人が共演できる機会はほとんどなかった。ヨーロッパ音楽をもたらしたのは、ルイジアナがフランスからアメリカへ割譲される以前から住んでいた、フランス人やスペイン人と黒人との間のクレオールだ。奴隷解放令によって地位が向上した奴隷の子孫と、地位の下がったクレオールの子孫が対等になり出会ったのだ(p.18)。

しかしニューオーリンズは、第一次世界大戦において軍港となる。海軍長官の指令により、ニューオーリンズの遊郭・歓楽街ストーリーヴィルが消える。ダンスホールやキャバレーで演奏していたジャズメンは場を失う。こうして人々は、黒人労働者を大量に必要としていたシカゴに移る。ジャズという言葉が誕生したのは、そのシカゴにおいて(p.22-24)。

著者は黒人ジャズのみならず、白人ジャズも中立に評価する。白人ジャズを確立したビックス・バイダーベックについて、著者の評価は高い。もっもと好きなミュージシャンとも書かれている(p.56-61)。何よりもジャズを普及させたのは白人だった。ジャズが初めて全世界の注目を浴び、大衆の音楽となったのは、ベニー・グッドマン楽団。世界恐慌後の1935年にグッドマンはスイング・ブームを起こし、幼児から老人まで熱狂させたのだった(p.71)。黒人のみでジャズが発展してきたというのは誤りである。バードへの白人プレイヤーの強い影響が語られる。バードはジミー・ドーシーとフランキー・トランバウァーを好んだ(p.136)。

ヨーロッパでのジャズ受容についてはさほど扱われていない。とはいえ、ヨーロッパにおいて早い段階で高水準のジャズ批評があったことが書かれている。指揮者として有名なエルネスト・アンセルメが、シドニー・ベシエを絶賛したのは1919年(p.75-78)。ヨーロッパとの関わりでは、デューク・エリントンが好きだったイギリス王室の話が味わい深く語られる。エリントンのレコードを一枚残らず収集していたプリンス・オブ・ウェールズ(後のウィンザー公)。第二王子のヨーク公(後のジョージ6世)もエリントンにピアノソロをリクエストしたという(断られた)。王室きっかけでイギリスは大不況時代にジャズが普及していく(p.110-113)。

1941-45年の過渡期にジャズはビッグ・バンドからコンボ、特にバップに移行していく。この過渡期は最も解明が難しいとされている。ダンスへの課税によるダンスとジャズの絶縁、著作権管理団体ASCAPとBMIの対立、戦争への招集など。そもそも、アメリカ音楽家連合会(AFM)のジェームス・ペトリロ会長によるストライキ指令により、この時期の録音が少ない(p.85-87)。1940年後半からニューヨークのジャズは不況を迎える。代わりに、朝鮮戦争の兵站基地となったロサンゼルスが新しいジャズの中心地となる。ジャズメンが移動する。ショーティ・ロジャース、ジェリー・マリガンがニューヨークから転居。カルフォルニアからデイヴ・ブルーベックが出る。白人ジャズメンのなかには、バルトーク、ストラヴィンスキー、シェーンベルクといった同時代のクラシック音楽を目指した者もあった(スタン・ケントン)。だが、この白人ジャズメンの音楽教養が逆に西海岸のジャズを衰退させる。1950年後半には衰微(p.179-184)。

1950年代なかばから、再び東海岸にジャズが盛り上がる。この時期のジャズは特に、1960年台に"black is beautiful"に代表される、黒人の黒人たる価値を見出そうとする機運と関連する。最初は黒人教会独自のゴスペル音楽を取り入れたファンクだった。しかしファンクはすぐに一般化してしまった。ここに位置付けられるのがオーネット・コールマンだ。オーネットの出現は前代未聞であり、白人には模倣できない黒人独自の音楽となったのだ(p.203-205, 215f, 236-238)。黒人ジャズメンはオーネットに触発される。ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーン。なかでも、エリック・ドルフィーはバードとオーネットをつなぐ役割を果たしている(p.253f)。

「余滴」と題された補遺には録音技術、ジャズのファン層、人種問題、ダンスとの関わり、ラテン音楽などが語られる。こちらもとても面白い。第二次世界大戦中にアメリカ政府が軍隊慰問のために作成したVディスクの話題など、古くからレコードを蒐集してきた著者ならではだろう。
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