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マルティン・ハイデガー『現象学の根本問題』


ハイデガーの1927年マールブルク大学夏学期講義録。『存在と時間』刊行直後の講義で、『存在と時間』で論じられたテーマが異なる視点で語られている。戦前の日本から流布していた私家版からの翻訳。もともと、全集邦訳版に収められているものがあまりに意味不明な悪訳のため、版権の問題で私家版の翻訳という妙な形になっている。講義録ということもあり読みやすい。各講義時間の冒頭に語られた、ここまでの振り返り(前回のおさらい)があるのが助かる。実際の講義を速記で記録したものだが、「みなさんにも一緒に論じてもらいたい」(p.13)とある割には学生からの質問とかは一切ない。ひたすらハイデガーが話している形になっている。

内容はハイデガー得意のスタイル、つまり西洋哲学史上の古典的テキストを細かに読解しながら、自らの観点からそれらテキストが何を言えなかったのか、それはなぜなのかを明らかにしようとする。このスタイルはテキストの新しい読み方を提示するし、論じているものが具体的なので、とても面白い。第一部では存在に関する4つの伝統的なテーゼを取り上げている。カントの「存在はレアールな述語ではない」に代表されている、神の存在証明から始まる現実存在の知覚における位置づけ。アリストテレスと中世哲学を中心とする、本質存在essentiaと現実存在existentiaの違い。再びカントに戻り、広がりあるものres extensaと思考すものres cogitansという2つの存在者の区別を道徳論から見る。そしてアリストテレス、ホッブス、ミル、ロッツェを論じる繋辞としての存在。この4テーゼの後の第二部は、ハイデガー独自の時間論、テンポラリテートの展開としての現存在の存在了解を扱う。こちらはせいぜいプラトンが少し出てくるだけで、古典的テキストの読解を中心とした議論というよりは、あまり具体的ではない独自の議論が続く。

ハイデガーによれば、哲学とは存在についての学、つまり存在論。哲学とは、存在とその構造とそのさまざまなありうべき様態についての理論的、概念的な解釈である。哲学以外の他の学問はみな、存在でなく存在者を主題としている(p.27-32)。こうした存在と存在者の差異こそ、ハイデガーがつねに論じ求めるもの。そのためにハイデガーは、現存在という名でわれわれ自身(この「われわれ」が何を、どこまでの範囲で指示しているのか私にはよく分からないが)、つまり存在者をつねに了解している存在者を通路とする。とはいえ、存在者に近づく可能性、存在者を解釈する仕方は歴史的に変わりうる。こうしたハイデガーの存在論的探求も歴史的伝統に規定されている。古典的テキストを丹念にたどり、その前提と限界を明らかにする、解体Destruktionと呼ばれる手続きは、そうした規定を知るためにが必要とされる(p.45-47)。

カントの神の存在証明から始まる第一テーゼの議論はクリアでとても面白い。トマス・アクィナスは、われわれ人間は神が何であるか、神の本質を知っていないのだから、神の概念から事実存在の必然性が証明できるかは分からない、という不可知論に帰着する。一方でカントは、事実存在はそもそも概念の規定に属するものではないと論じている(p.58-60, 73)。事実存在(現実存在)はカントにおいては知覚において与えられるものとされる。ここでのカントの論じ方は不明瞭だとハイデガーは見ている。知覚の構造について、ハイデガーは代わりに彼の時代の志向性の議論を持ってきている。現存在が実存するということは、志向的な構造を持ってるということ。ある意味で現存在はつねに「外」におり、現存在には外部はなく、それゆえ内部というものもない(p.111-114)。ここでの志向性の議論はとても参考になる。

続く第二テーゼは、第一テーゼの解明では否定的な議論に終わった現実存在と本質の違いを正面から取り上げる。この議論が本書の中核をなすだろう。ギリシャ、中世哲学、カントのテキストに分け入りつつ、それぞれの論じ方を取りまとめていく。本質と事実存在の区別は、可能的なものが現実性へどう移行するか、すなわち現実化にある。中世においては、この現実化は神による創造に求められる。神による創造によって、存在者は現実存在するようになる。しかし、現実化については歴史上いくつもの考え方があり、創造として考えられるべきかは別問題である(p.165)。実際先に見たとおり、カントは現実性を主観の認識作用から考えている。近代では、何かが現実存在しているかどうかは、主観に何らかの作用を及ぼすか、あるいは他のものに作用を及ぼすものという意味で捉えられている(p.173)。

ここでハイデガーは、古代ギリシャ哲学の存在論は制作的態度から考えられるとする。ハイデガーによれば本質ousiaは所有物という意味でもある。ギリシャでは、あたかも職人が何らかの範型を参考として物を作るように、本質を似姿として存在者が制作される。ギリシャ哲学の存在論は制作をモデルとしていると議論する。とはいえ、自然や宇宙は古代ギリシャでは永遠で生成しないものと捉えられている。これらは制作されるという存在論とは別個の捉え方に見える。しかしハイデガーは、これらの制作されない存在者も制作の素材として考えられるから、なおも制作的態度のうちにあるとしている(p.190-197)。明らかに制作モデルから逸脱している存在者を論じるこの議論にはやや無理があるように思える。ギリシャでは地上の運動と宇宙の運動がまったく別個のものと考えられていたように、別個の存在論があったと考えてもよいのではないか。むしろ、制作に先立って制作されないものが存在する必要があるのだから、制作モデルの存在論は二次的な考えとも言える。神による創造という中世キリスト教の観点が読み込まれているように思える。それが中世でのアリストテレス受容だったとはいえ。

第三テーゼ、広がりあるもの(延長)と思考するものの区別はデカルト的区別だが、メインの議論はカント。それも道徳的人格性の議論が扱われる。確かにカントは道徳論において事象と人格の区別を根本的なものとして立て、人格は手段としてでなく目的として扱われるべき独自の存在者としている。したがって延長と思考の区別はカントの道徳論において際立つ。これは視点の広い鋭い論じ方と感じた。とはいえカントは、目的としての道徳的人格の存在様態への根本的な問いを立てていないとされる。 カントにおいて人格は物自体、実体として神によって制作されたものと考えられている。つまり完全に伝統的な古代中世存在論の地平のうちで展開されているとの読み(p.244-252)。するとカントにおける現実化の原理は、延長について主観の認識作用、人格について神による創造があるということだろうか。

第四テーゼは繋辞としての存在、すなわち論理学における「SはPである」の「である」を巡る議論。アリストテレスの論理学のみならず、ここでは唯名論と実念論の議論を背景にホッブス、ミル、ロッツェが出てくるのが興味深い。とはいえ、1927年の講義なのに当時の論理学をまったくフォローしていないのは妙でもある。アリストテレスの伝統的論理学以来の革命とされた数理論理学の流れは、1927年のハイデガーにどのように届いていたのだろう。例えばフレーゲだと「SはPである」という命題は関数適用の形になっており、そもそも繋辞としての「である」という論点自体が存在しない。そして日常言語の構造は事象の構造を正しく反映しておらず、繋辞にまつわる問題はほぼ擬似問題という見解は、ハイデガーにも近いもののように見える。

さて第二部の時間論は具体的でなくあまり面白くなかったので、真理概念の話をメモしておく。ハイデガーは真理と虚偽に関するロッツェの議論をフォローした後、真理の概念を論じている。それはおなじみの、真理とは明らかになっていること、非隠蔽性だという議論。そして非隠蔽性としての真理は現存在の存在了解に含まれており、現存在が存在者と出会うことを可能にしている。この議論はアリストテレス解釈から取り出される(p.352-365)。アリストテレスのテーゼの解釈としては通用するかもしれないが、真理と虚偽という対概念はどうなったのだろう。真理は現存在の実存構造だから、もともと現存在が存在する限りあるとすると、懐疑主義に抗して真理の無時間的な妥当性を議論する可能性を閉ざしてしまう。これについて、「前回のおさらい」の中でハイデガーは微妙な発言をしている(p.376f)。例えば、ニュートンの法則は発見される前には露呈されておらず、したがって真ではない。とはいえ偽であったわけでもなく、発見以前には真でも偽でもないのだ。発見されたとき、法則は通時間的に真であるものとして発見される。真理は非隠蔽性だから、存在者が現存在に対して現れていればそれが真理である。したがって、現れたものが本当にそうなのか、了解が正しいのかどうか、という真理と虚偽の議論はここには成立しない。そしてまた、真理は現存在の存在了解に含まれるものだから、現存在がいなければ真理は存在しない。ハイデガーは真理とは非隠蔽性のことなのだから、これで構わないと述べている。これはどうも、真理という概念を非隠蔽性に置き換え、本当の真理概念についての問いを回避しているようにみえる。逆説的に言うと、非隠蔽性として真理概念を読み替えたことにより、真理についての問いが隠蔽されてしまっている。こうした隠蔽はなぜ起こっているのか。何がハイデガーを真理への問いから遠ざけたのか。

けれどもそうした本当の真理概念については、他の現存在との関わりにおいて問われるべきだという議論がありうる。すなわち、現存在は他の現存在と一つの世界を共有している。この世界の共有が、発見したものを間主観的に確証し世界了解の一致を間主観的に根拠づける可能性を構成している、と(p.477)。とはいえそれは、真理を確証する手続きの話であって、例えば命題が真であるとはいかなることかを説明するものでないだろう(検証主義的真理概念はひとまず置いておくとして)。真なる命題は非隠蔽性としての真理を必要とせずとも<存立>する、という以下の議論は少し混乱しているか、あるいは思わず何かを言ってしまったといった感じがする。
ありのままに存在するためには、自然は真理すなわち露呈されている状態を必要としません。真なる命題で意味されている事態<2×2=4>は、お望みとあらば、これに関する真理といったものが与えられていなくても、永遠に存立することができます。これに関する真理といったものが与えられているばあいには、この真理において意味されている事態が、それが<しかじかである>という点ではこの真理に依存しないことも、この真理はわかっているのです。しかし、永遠の真理が与えられているということは、[...]人間的現存在といったものが、永遠の昔から未来永劫にわたって実存するということが絶対的に明証的なかたちで証明されないうちは、一つの恣意的な仮定であり主張でありつづけます。真なる言明としての<2×2=4>という命題が実際に真であるのは、現存在が実存するあいだだけです。原理的にいかなる現存在ももはや実存しないとしたら、この命題はもう妥当しませんが、それは、この命題そのものが妥当性を失ったからではありません。[...]むしろ、真理としてのなにかが発見されている状態は、発見し実存する現存在とともにしか実存しえないから、妥当しないということなのです。(p.363f)

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。
しかし博士号は取らずPh.D. Candidateで進路変更。
哲学と特に関係なくIT業界に住んでいる。

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