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大貫隆『イエスという経験』

イエスという経験イエスという経験
(2003/10/25)
大貫 隆

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「史的イエス」を巡る考察。特徴は、イエスその人が抱いていた神話的描像を取り上げることだろうか。史的イエスにまつわる論争は、旧来のキリスト教内部での護教論的理解から脱するあまり、イエスにまつわるすべての神話的事項をそぎ落とす傾向にあった。

しかしイエスはなによりも、古代イスラエルに生きた歴史的人物である。その歴史の中で生きた人物は、当然のことながらその時代の神話を生きている。つまり、神の国や、サタンの存在である。確かに、神の国にまつわる話は、福音書家による脚色を多く受けている。サタンの話も、あまりに黙示論的だ。だが、イエスはこれらの神話を生きたのだ。彼は、神の国がいまここに到来しつつあると確信する。そのために地に落ちたサタンとの最後の戦いに挑む。しかし社会には理解されず、ついには十字架の上で自身にも理解不可能な死を迎える。自らの生き方の意味について、苦悩する人間イエスが描かれている。キリスト教会的な「聖者」イエスとはかくも離れた姿。

だが、キリスト教的な「神の国」からイエスの「神の国」を取り出す手続きは、私にはそんなに説得的とは思われなかった。明らかにこうである、という言い回しが散見されるが、議論についていけない箇所も多かった。著者にはもっと言いたいことがあるのだろう、とは行間から感じられるが、言い切れていない感じだ。

特に印象に残るのは、神の名においてではなく、どこまでも自分の責任のもとで語ろうとするイエスの姿だ。それはイエス自身が神だからではない。神や他の権威を持ち出すことなく、自らの責任において自らの確信をどこまでも語ること。その確認があまりに突拍子もないものだったことを考えれば、それは驚くべきことだ。自らの強い信念のもと一貫して行動する人は、何かを成し遂げるものだ。それは宗教家に限らない。政治家でもNPO活動家でも経営者でも同じ。

「神の何よらず、自分の名(責任)において発言し、行動する。それに対する神の正否の判断は神に委ねる。今、私たちの身の周りでは、一方が神の名による正義の戦争(聖戦)を唱えれば、他方は、自分たちは神の名の下に「悪を殲滅する十字軍」だと主張する。イスラム教徒がどうであれ、ユダヤ教徒がどうであれ、今、真にイエスの弟子であろうとする者は、神の名を引き合いに出すことを堅く断念して、自分の名前と責任において発言し、行動しなければならない。それは政治家だけのことではなく、イエスの「神の国」のメッセージに耳を傾けようとする者すべてにあてはまることである。」(p.264f.)
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