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アンドレアス・ワイガンド『アマゾノミクス』


何よりもこの邦題は酷いだろう。このタイトルからはアマゾンのビジネスの仕組みと、それを支えるデータサイエンスについて書かれているように見える。しかし本書はアマゾンの話を中心としたものではない。出てくる企業の話ならフェイスブックが一番多い。そもそも著者はアマゾンの元データサイエンティストだが、書いているスタンスはアマゾンからまったく別である。この邦題は原著への冒涜と、読者への詐欺に近いものだ。原題は「人々のためのデータ いかにしてプライバシーなき経済をあなたのために機能させるか」といったものか。原題が適切に表現しているように、いまは巨大テクノロジー企業に囲われている様々なデータを開放して人々のもとに取り戻し、人々のために役立てよう、という趣旨の本だ。"Data for the people"という言い方は、行政を権力者のためでなく人民のものに取り戻すというリンカーンのゲティスバーグ演説を背景にしたものだろう。

本書には、ソーシャルネットワーク上のデータ、IoTなどのセンサーデータ、スマートフォンなどが生み出すライフログといった個人に関する膨大なデータから、どのようなサービスが生み出されているかの実例が極めて豊富。かなり膨大で、事例集としてそのまま役に立つレベルだろう。しかし著者の問題意識は、日々生成されるこれら膨大な個人データが、企業に捕らわれていることにある。すでにこうしたデータは、個人を容易に特定し、リスク判定や将来予測から個人の今後をも判定してしまう。例えばソーシャルネットワーク上でどのような人々とつながっているかで、貸出利率が決まる仕組みなど。これはデータを政府が独占活用するビックブラザーの時代でないにしろ、巨大企業が個人のデータを握り、コントロールし、決定する時代だ。

これに対して、著者はわれわれが自らに関するデータを共有すれば、それにともなうリスクを上回る、本質で明らかな価値が生まれると信じる(p.10)。われわれが個人や社会として、どのような未来を望むかを決めることはテクノロジーには決してできない。われわれの未来に重大な影響を及ぼす基本ルールに関する意思決定を、データ企業の手に委ねてはならない(p.18f)。われわれは受身的な消費者の意識を捨てて、ソーシャルデータの共同制作者という主体的な意識を身につけるべきだ(p.30)。個人のためのデータにより、決定権を企業から個人に取り戻すことが何より重要なのだ(p.301)。

鍵となる要素は2つ。われわれがデータ企業に対してすべてを開示するのと同じように、企業側にもわれわれに対して透明性をもたせること。データの使い方について、われわれ自身が一定の決定権を握ること。すなわちデータの透明性と主体性だ(p.10, 21-24, 163)。

プライバシーという概念は現代において薄れてきている。プライバシーという概念は、煙突が普及した17世紀に生まれた。煙突ができて暖炉の煙が部屋に充満しなくなり、人々は窒息を恐れずに部屋や家を締め切れるようになったのだ。しかしビッグデータの時代では個人は容易に特定できてしまう。現代ではプライバシーは幻想である(p.71)。

こうしたプライバシーにかかわるデータを扱う企業を、われわれは慎重に評価しなければならない。単にオプトイン・オプトアウトの仕組みがあればよいのではない。必要なのはデータの発生や取得の時点でコントロールすることではない。データを持ち利用している会社をどうコントロールするかの発言権を確保することだ(p.218)。そのために、著者はデータの透明性と主体性を確保するための6つの権利を挙げる(p.219-221)。自分のデータへのアクセス権、データ会社の監査権、データの修正権、データをぼかす権利、データの設定変更の権利、データを移行する権利。データ会社の監査については、データセキュリティの監査結果の公表とデータに関わる人の身元調査を求めている(p.233-236)ほか、監査の5つの観点を挙げる(p.240-242)。

われわれにはデータ会社を横並びで評価するダッシュボードが提供されるべきだ。ユーザーが自らのデータを提供するかどうか、このダッシュボードを見ながら判断できるのが著者の願い(p.255-257)。このダッシュボードには例えば、プライバシーデータを提供したらどれだけのリターンがあるか、というプライバシー効率が挙げられている(p.242-253)。けれども、提供量はユーザーがそのデータを入力するのに要した労力だろうか。簡単に入力できてもプライバシー性の高い情報はあるだろう。データからのリターンは利用頻度などだろうか。それで測れるのだろうか。

本書には企業がデータを独占して様々なサービスに活かしている様子もあれば、著者が望むオープン化の方向への例もたくさんある。医療情報を患者個人に開放するオープンノートの話などは大いに参考になる(p.325-327)。

著者の言うことは説得力があるとはいえ、理想論に過ぎるように見える。例えば、パーソナライゼーションのアルゴリズムは公開されていない場合が多く、ユーザーが簡単にオフにできるべきだという(p.155)。しかしアルゴリズムの公開などなされないだろう。データを容易に移行できるようにするには、どんなデータを取得してどのように保持しているかが明らかにされなければならない。しかしこうしたことは、まさにデータを活用する企業のきわめて核心的な利害である。それはデータサイエンティストとしての著者がもっとも理解しているはずだ。また、消費者はあらゆる商品の生産地、製造ラインの状態、店頭までのルートの情報アクセスを保証されるべきという(p.297)。ここには生鮮食品も含めるというから、膨大なコストがかかり、現実的ではないだろう。

本書にはアメリカ型(というより西海岸的な)個人主義の傾向が色濃くみられる。データは揃ったのだから我々は主体的に判断しなければならない(p.338)。すべてのデータは明らかにされ、人々はそれらをもとに主体的に判断し決定しなければならない。最後にプラトンの洞窟の比喩が出てくるのが、この啓蒙主義的トーンを象徴する(p.339-341)。

けれどもデータ開示の現実性とは別に、人々は自分に関する膨大なデータを前に、判断できるのだろうか。過剰なデータは情報量を増大させるというより、ノイズを増幅させるのではないだろうか。もちろんデータ企業に独占させたままでよいというわけではないが、開示されれば解決への道が開かれるだろうか。プライバシーなき社会で人々はどう生きるのか。複数のアイデンティティ、n個の性・・・もしかして我々はもうすでにそうやって生きているのではないか。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。
しかし博士号は取らずPh.D. Candidateで進路変更。
哲学と特に関係なくIT業界に住んでいる。

別館:アマゾンのレビューページ

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