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井野瀬久美惠『大英帝国という経験』


18世紀から20世紀に至る大英帝国の展開を描く。大筋を描くというよりは、あまり知られていないような細かなエピソードをつないでいく。商人だったり、労働者だったり、女性だったり。これは大英帝国について書かれた書物が多い中で、いかに本書の特色を出すか苦心した結果のようだ。

大英帝国の展開が二つに分けられている。18世紀初頭からの、アフリカの奴隷をアメリカやカリブ海で用いて生産した砂糖やタバコなどをイギリスに持ち込んだ三角貿易の時代。航海術と王立海軍に支えられたプロテスタントの帝国であり、第一次帝国。かたや19世紀初頭からの大英帝国はインド、オセアニアに勢力範囲を拡大。イギリスそのものが拡大するというより、自由貿易(といっても大英帝国というブロック経済の中での)と博愛主義のもと多元的な帝国となった第二次帝国。この二つの帝国の変化の原因は、アメリカ独立(イギリスから見ればアメリカの喪失)にあるという(p.17-22)。

7年戦争後の度重なる課税の中で、アメリカの人々は、アメリカ植民地の位置付けがイギリス帝国の中で曖昧であることに気づく。一方でイギリス人は、植民地アメリカの人々もイギリス人であるという認識を持ち続けていた。しかしアメリカは結局、フランスやオランダという外国の支援を得て独立を勝ち取っていく。特に同胞と考えていたアメリカの人たちが、こともあろうにカトリックのフランスと組んだということは、イギリス人に大きな衝撃を与えた。アメリカ喪失はイギリス帝国に変容をもたらす。イギリス人としての共感を植民地に求めること、ウェストミンスター議会を核とする議会統治の枠組みに植民地を組み込むことは、賢明でないという認識が得られた。そして、アメリカ喪失はイギリスが植民地を抑圧した結果ではなく、その逆に植民地に勝手な統治を許してきた有益なる怠慢の結果であるということを知った。こうしてイギリス帝国は、イギリスの議会の権限を拡大せず、植民地に直接課税を求めず、しかししっかり介入するという自由貿易の帝国へ転換していく(p.50-56)。

アメリカ独立でイギリスは、そのアイデンティティが大いに揺れる。スコットランドとアイルランドの話がここに絡んでくる。1695年からスコットランドは、独自の帝国を作ろうとパナマのダリエンに拠点を儲けようとするが、このダリエン計画は挫折に終わり、その費用負担で国家の財政破綻を招く。1707年のスコットランドのイングランドへの吸収はこの余波だ。スコットランド、特にハイランドの人々は、統合されたイギリスの中で、イギリスのアイデンティティを支える役割を担う。1745年のジャコバイトの反乱によって、イングランドからひどい仕打ちを受けたハイランド人たちだが、例えばフローラ・マクドナルド一家は逃れたアメリカのノースカロライナで、イギリス国王に忠誠を使う王党派の立場を貫くという一見不思議なことになる(p.70-89)。

第二次帝国としての大英帝国の展開が本書のメインテーマ。それは統一した記述というより、様々な側面、トピックを蒐集する形で書かれている。カナダやオーストリアへの移民、奴隷解放(ブリストル市のコルストン像騒動にからめて)、紅茶、万博、理想の家庭像としてのヴィクトリア女王一家、大英博物館、旅行会社トマス・クック、アフリカや中東を一人で旅したレディー・トラベラーたち。

奴隷貿易の廃止は比較的短期間で進んでいる。その理由は今ひとつ理解しがたい。著者はイギリスが奴隷貿易を廃止できたのは大きく二つの理由が考えられるという。第一に、奴隷労働に適した砂糖の生産とその取引が儲からなくなったという経済的理由。もう一つは奴隷売買に対する考え方の変化、文化的、思想的な理由である(p.150)。後者の考え方の変化というのが重要。これが自由貿易と博愛主義へつながる、大きな変容だ。

1781年のゾング号事件が象徴的に取り上げられる。ゾング号事件は、奴隷を奴隷船から生きたまま投棄したことへの損害保険を巡って行われた事件。奴隷が航海中に死亡した場合は、「積荷」の損壊として保証の対象となる。では生きたまま海上に放り出した場合はどうかが争われた。この事件での奴隷に扱いに心を動かされたケンブリッジ大学副総長が、1785年に行なったラテン語論文コンテストで、クラークソンが優勝する。すでに大西洋をまたいで奴隷廃止運動を始めていたクエーカー教徒のネットワークとクラークソンの活動が結びつき、奴隷廃止運動が広がっていくという展開だ(p.154-165)。奴隷貿易廃止法案は1790年代に何度か議会で否決される。しかしこの後、フランス革命の思想的影響もあって1807年に同冷房駅廃止法案は可決。ついで1833年に奴隷制度そのものが廃止される。それにしてもなぜこの時代に奴隷廃止運動が広がり始めたのはよく分からなかった。人々はこの時になって初めて奴隷の扱いに気付いたのだろうか。

紅茶の普及についてはなかなか面白かった。確かに大陸側ではほとんどコーヒーが好まれるのに、イギリスは紅茶だ。紅茶の普及には女性が大きな役割を果たしたという。そもそも飲茶の習慣は、17世紀初頭にアムステルダムのサロンの始まったと言われる。チャールズ2世の王妃キャサリンによってイングランドの宮廷に広まっていく。メアリー2世もその妹であるアン王女も紅茶好きで、王室の支援により紅茶はお墨付きとなる。また1784年の関税の引き下げによって紅茶は庶民に広まっていき、18世紀前半には紅茶の消費量はコーヒーを上回り始めることとなる。ただし当時イギリス人が飲んでいた茶はもっぱら緑茶、それも粉末の緑茶だった。イギリス人が紅茶を愛飲するようになるのは、1790年代以降のこと。こうした紅茶の普及には、帝国支配下のインドでの紅茶生産が寄与している。紅茶はもともと中国のもので、それをインドで生産し始めたことがきっかけだ(p.180-188)。

トマス・クック社が取り上げられているのも面白い視点。トマス・クック自体はパッケージツアーを生み出したが、彼は禁酒運動の一貫だった。旅とは信仰と社会モラルの向上を目指していた。もっと商業化したのは息子のジョン・クック。彼が旅をもっと大衆化し、アフリカ、インドなど広く大英帝国の範囲全体に対象を広げていった。イギリス帝国の拡大と並行して進められる帝国を見る旅は、大英帝国の拡大を正当化するレトリック、野蛮の文明化とぴったり合致していた。トマス・クックを率いたジョンの観光拡大戦略は、旅に文明の使者というお墨付きを与えたのだ(p.251-263)。

文明の使者という観点では、女性の移民の話がある。大英帝国の全盛期に当たる19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリス本土では結婚適齢期の女性たちの余剰が問題視されていた。この余剰の原因は、15歳までの男性の死亡率が女性を圧倒的に上回っていたこと(これがなぜかは記述が見当たらない)、帝国の拡大に伴って軍人、行政官、商人、移民として男性が外国に多く出て行ったことである。これに加えて女性は家庭の天使であるというヴィクトリア朝の価値観もあって、特に独身女性は形見が狭く、その余剰が問題になっていた。こうした女性たちは植民地におけるイギリスの理想を伝える使者、帝国の使者として植民地へ旅立っていった。カナダ西部での苦労話などが書かれている(p.274-286)。

さて自由貿易と博愛主義の第二次大英帝国は、やがて凋落を迎える。いくつかの兆候が指摘されている。それはボーア戦争におけるイギリス人部隊の蛮行、フーリガン(とそれに対抗した若者教育として生まれたボーイスカウト)、第二次アフガン戦争の戦後処理の失敗。とても文明の使者とは言えないようなイギリスの振る舞いが見られるようになっていく。

終わりには、ガートルード・ベルという女性を中心に20世紀初頭の中東におけるイギリスの多重外交が語られる。さらに1958年のノッティングヒルにおける黒人排外暴動。イギリス旧植民地からの移民が多く増えた20世紀後半のイギリスで、アイデンティティを求めて模索する人々の姿に、大英帝国の残滓、残光を見て終わる。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。
しかし博士号は取らずPh.D. Candidateで進路変更。
哲学と特に関係なくIT業界に住んでいる。

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