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フレデリック・ラルー『ティール組織』


これはとても良い本。新しい時代の組織について書かれた一冊。580ページもあるが、理論整然としているし、具体例も多いので極めて読みやすい。著者の言う新しい組織形態は進化型evolutionary組織と呼ばれる。その組織には指示関係を表す組織図もないし、全社戦略も、全社の予算もない。現場の小さな人数からなるチームが権限を持ち、現場でおよそすべての意思決定を行う。進化型組織の人々は利益を追わないし、自分らしく生き生きと働く。

こんな特性の組織を聞くと、特に営利組織として存在することは夢物語に見える。だが著者はこうした組織を実際に発見し、調査し、その特徴を描き出す。こうした新しい組織形態を模索しているパイオニア組織は、互いの存在を知らず、セクターや規模にかかわらず驚くほど似たような組織構造と慣行にたどり着いている(p.20f)。本書はそうした知らずのうちに共通した、進化型組織の特性をとても分かりやすく書く。すぐに様々な疑問に浮かぶーーやる気のない従業員・フリーライダーへの対処、予算配分、人事考査、報酬体系、採用、チーム間で意見が対立する際の調停、マネジメント、法務や財務などのバックオフィス機能、利益を求める株主への対処。こうした事柄に、進化的組織は対処する方法を持っている。具体例を挙げて明快に示される。頻出するのはオランダの高齢者訪問看護組織のビュートゾルフ、フランスの金属部品メーカーFAVI。他にはグローバルな電力会社AES、アメリカのトマト加工食品会社モーニング・スターなど。日本のネット企業オズビジョンも少し登場する。

著者の組織観は、人間の発達心理学的な発達段階が基礎になっている。単なる受動的な段階から、神秘的、衝動型、順応型、達成型、多元型と名付けられた段階を経て、進化型に至る。この分類と特徴づけはクリアで、ここだけでも価値は高い。ちなみに著者はこうした人間の意識の発達段階を、インテグラル理論に倣って色で表す。ただし色名の付け方は部分的に異なっている(p.28)。邦題にもなっているティール(原題は「組織の再発明」)とは、カモの一種。特にマガモの首の、深い緑から青に至る色を指す。ただ、この色名はさして意味がない。何か思い入れがあるような記述もあるが、なぜ各発達段階にその色名が付けられているのかは説明されない。「進化型」など、それぞれの段階を特徴づける名前がきちんとつけられているので、色名はまったく無視してよいだろう。「ティール組織」なんて名前でなく、きちんと「進化型組織」としてこの概念が広まってほしい。

ここでは発達段階とされているので、あたかもここには階層秩序があって、下位の段階は劣るように見える。本書は明確にそう扱っていないが、読み手は序列を見るだろう。それは間違いだろう。それぞれの環境に応じて、適切な発達段階、組織形態がある。特に新しい段階の組織が生まれるスピードは加速しており、現代は多くの段階の組織が隣り合わせに活動している(p.61f)。ここに序列を読み込むのは先入観に過ぎない。ちなみに参考文献を見るに、この発達心理学的なところは、組織学や経営理論に比べて古い。著者がメインに参考にしているのは例えばケン・ウィルバーなのだが、議論自体の古さは頭のどこかに置いておいたほうが良いだろう。

現代の社会では多くの組織は達成型である。そして多元型が達成型を克服するものとして見られている。達成型の発達段階では人間は自由に人生の目的を追求する。ここでは成功する(出世する、金持ちになる)ことが中心だ。達成型組織は現代のグローバル企業に体現される。イノベーション、説明責任、実力主義がそれを彩る。ただし達成型組織の問題はイノベーションの行き過ぎ。ニーズを無理やり作り出そうとし、成長のための成長を目指す。こうした組織は、医学的には癌そのものといえる(p.57f)。

著者は最後のほうでは、この発達段階の比喩を組織形態のみならず、社会全体にも拡張する。順応型なら封建制社会、達成型社会に至って産業革命が起こるなど。すると、進化型社会では自然との共生、利子なき金融システム、所有権から管理責任へ、といったところがキーワードになる(p.487-497)。

各組織の発達段階を決めるのはリーダーの発達段階だ。リーダーがどのパラダイムを通じて世界を見ているかが、組織を決める。どんな組織もリーダーの発達段階を超えて進化することはない(p.70-72)。ゆえ、組織のミドル層とかからの変革はほぼ無理。進化型組織になれるかは経営トップと組織オーナーの世界観で決まる(p.394-396, 445)。組織の発達段階に応じて、その中の人の振る舞いも作られていく(p.133)。軍隊的な組織にいれば、是非を考えず服従を主とする人間になる。このことは、四象限を用いてうまく語られる。それは個別的/集合的、内面的/外面的の軸からなる。個別的で外面的なもの、すなわち観察可能な個人(リーダー)の行動が起点となり、それが集合的・外面的なもの(組織のプロセス)と集合的・内面的なもの(組織文化)を作り、個別的・内面的なもの(個人の心の持ち方)を作っていく(p.380-382)。

進化型の発達段階とは、自分自身のエゴ、私利私欲を切り離した段階。ここでは独りよがりの思いや、他人の評価や外的基準によって人は動くのではない。全体と調和した、自ら正しいと信じる信念に基づいて行動する(p.74-76)。こうしたエゴの超越は、著者においては後ろにスピリチュアルなものが控えている。超越的な精神領域への解放と、自分が大きな完全体の一部であるという深い感覚とともに起こる。ヨガとか禅とか、インド哲学とかを思えばよい。全体性wholenessにたいする憧れが生まれるという(p.82)。この辺りは達成型の個人主義に対するアンチテーゼの面が強く、特に欧米の文脈ではよくあるものなので、さほどまともに受けあう必要はないだろう。

進化型組織は、生命体に比喩で語られる。ちなみに達成型組織は機械、多元的組織は家族(p.90-93)。進化型組織へ移行するための突破口break-through(本書の用語だが、進化型組織の特徴くらいに思えばよい)が3つある。自主経営self management、全体性wholeness、進化目的evolutionary purpose。この三つをキーワードにして、そのために進化型組織がどのような仕組みを備えているのかは簡単にまとめられていて(p.385-389)、そのリストは極めて参考になる。

ちなみに進化目的は本書では存在目的と訳されている。これは著者の意を最大限汲むか、分かりやすさを取るかだが、単純に組織の存在目的(存在理由raison d'être )とは言いにくい。生命体としての組織がどこへと進化していくか、なぜ変化を行うかという意味合いがある。すなわち生命体の比喩を使いつつも、組織は人間が作るものだから目的を持つ。生物学的進化そのものには目的はない、という議論に馴染んでいる人には、進化目的という言葉はちょっとピンとこない。というより、生命体の比喩はそもそも失敗しているとも言える。

自主経営というのも苦しい訳語だが、現場の小さなチームが意思決定を行うこと。その意思決定の程度は並大抵のものではない。マネジメントの権限そのものが委譲される。よって進化型組織にはミドルマネジメントがない。法務や財務など、いわゆるバックオフィスのスタッフもない。通常の会社では各現場がそうしたバックオフィス機能を持つより、本社に集約したほうが規模の経済が働くのだが、そうした考えはない。またスタッフ機能によって現場をコントロールするという幻想を捨てなければならない(p.121)。法務知識などは現場が知識を身に着けるか、外注して助言を求める。スタッフ機能によるコントロールの代わりに、相互信頼による統制が効いている。他人を見習う習慣と仲間からの圧力が、階層性よりもはるかにうまくシステムを統制するのだという(p.133-136)。この、お互いを徹底的に信頼すること、というのが進化型組織の一番の特徴だろう。明確には書かれていないが、相互信頼こそが鍵。進化型組織は従業員を信頼する。マクレガーのY理論だ(p.182f)。

よって自主経営とは、ソビエト的な中央計画委員会から、組織内に自由市場経済を成功させる原則を持ち込むということだという(p.141f)。ただ、自由市場経済が相互信頼によって成り立つかどうかは議論の的だろう。比喩は成功しているだろうか。マネジメントなどの管理業務が一人のメンバーに集中すると、いつのまにか階層的組織のやり方に戻ってしまうリスクがある。ビュートゾルフでは管理業務をいつでも全員で負担しておくようにしている。FAVIではチームリーダーと呼ばれる一人の人に管理的な仕事が集中しているが、誰もがいつでも他のチームに移れるようになっている(p.152f)。意思決定はそれぞれが行うが、利害関係者のすべてに助言を求めることが要求されている。ただし、助言には従わなくても良く、コンセンサスではない(p.165-171)。最後にはその人・チームの意思決定をみなが信頼し、尊重する仕組み。

ソーシャルネットワークなどで他人と結びつくことに慣れている、ミレニアム世代の方が自主経営に馴染んでいるかもという指摘(p.232-234)は面白い視点。

全体性という特徴については、私利私欲を仕事に持ち込まないことが鍵となる。他人の妬みや羨み、足の引っ張り合いをなくす。自分の中の何かを我慢して仕事を行う必要はない。自分らしく仕事をできるように、オフィスを整えること。犬を連れてきたり、子供を連れてきてもよい。エゴを排除すると言っても、無私無欲が要求されるのではない。私たちは利己的でなく、完全に自分らしさを保ちながら、組織の進化目的の達成に向かって努力することができる。勤務中に自分を一部でも拒絶する必要はない(p.412)。こうしたことを実現するために、紛争解決プロセス、ミーティングルール、オフィスビルの工夫、人事制度などがある(p.242-244)。

全体性のくだりは、やや違和感を覚える。どうも論調は、仕事する私とそうでない私(onとoff)の分離を問題視して、私という全体を取り戻そうという話になっている(その先に世界全体との調和というより大きな全体性の話が来る)。ただ、ポイントはエゴを仕事に持ち込まないことだろう。相互信頼は、ペルソナ間では無理なのだろうか?発達段階の話からする進化型段階での自我の超越、全体性のテーマから、進化型組織において全体性が持ち込まれているように見える。ポイントが少しずれている感覚を個人的には持つ。

進化目的は、従来型組織では経営理念だったりビジョンにあたるようなもの。ただ、進化型組織の持っている進化目的は、その組織のためのものというより、より広い文脈にある。社会的課題の解決のようなものが据えられる。その目的が達成されるなら、自分の組織が達成する必要すらない。容易に他の組織と組んでいくし、利益を追うことも目的としない。利益は目的を実現するにしたがって得られていく副産物だ。進化目的とは、自分の組織が世界の中で何を実現したいのかという独自の目的を、従業員が感じ取り、自分の会社が生命体であると捉えるようなものだ(p.470f)。

こうした進化目的に向けて、進化型組織は目標数値などは設定しない。進化型組織の視点からは、未来は予測できないもの。目標数値の設定は意味がない。アジャイルなやり方が主(p.352-358)。こうして進化型組織は状況に合わせて変化し続ける。変革は自然に起こるため、チェンジマネジメントなどいう考えすらない(p.362)。ちなみに、こうした環境の変化への適応、数多く繰り返される実験的な事柄、変化の行方の分からない統制のなさといったところが、進化型組織の生命体との比喩の理由であり、「進化型」という名前の由来だろう(p.485)。だが、進化とは単独の生命体=組織で起こることではなく、世代を通じた淘汰において起こるもの。ちょっとずれがある。

最終章は進化型組織の作り方。進化型組織は一度できてしまえば、もう安泰なのではない。CEO(進化型組織は階層がなく最高責任者という概念はふさわしくないが、いわゆるCEO)や取締役会の理解がなければ、進化型組織もすぐに従来型に戻ってしまう(p.420-427)。三つの特徴のうち、一番達成しやすいのは進化目的。進化目的に関する慣行は、最も容易に受け入れられる可能性が高い(p.472)。もっとも難しいのは自主経営。自主経営を採用する進化型組織に移行する時に最も難しい問題は、ミドルマネジメント、シニアマネジメント、スタッフ部門の抵抗にどう対抗するかだ(p.455-457)。こうしたものができていない、スタートアップ企業は一番、進化型組織にしやすい。そもそも立ち上げの直後の段階はどこも自主経営される傾向がある。進化型組織はゼロから立ち上げる方が作りやすい(p.434)。

進化型組織への移行の仕方は三つ書かれる。創造的カオス、ボトムアップの再設計、既存テンプレート(p.457-461)。創造的カオスでは、ビッグバン的にトップダウンで組織を作り変えてしまう。このこと自体は進化型組織とは相いれないのだが、法措定暴力のようなものだ。ボトムアップの再設計では皆の同意を取りながら、組織を変革していく低速なアプローチ。既存テンプレートはすでにある進化型組織の形(ホラクラシーなど)を導入する。実際はこの導入の過程がトップダウンかボトムアップになり、前二つに吸収される区分だろう。

進化型組織が、自主経営・全体性・進化目的を実現するために持っている仕組み、慣行(p.438-443)。自主経営について3つ、助言プロセス、紛争解決メカニズム、同僚間の話し合いに基づく評価と給与決定プロセス。全体性について4つ、安全な空間を作るための基本ルール、オフィスや工場の設計、オンボーディング・プロセス(新人教育)、ミーティングで実践すべき慣行(参加者のエゴを防ぐ手段)。進化目的について2つ、採用プロセス、「誰も座らない椅子」(組織そのものの意見を代弁する)。よくまとめられている。

進化型組織への全面的な移行は、記されている通りリーダーやオーナーの世界観によってなされる。一見、従業員には関係のない話に見える。ただ、徐々にでも進化型組織の特徴を取り入れていなかければならないように、時代環境は要求しているのも確か。自分のチームで進化型組織の慣行をいくつか採用してみるなど、できることもあるだろう。誰もが一度は読んで、みずからの属する組織(それは企業に限らず、地域コミュニティーや学校かもしれない)について考えるべき。豊富な視点を提供する、貴重な一冊だろう。
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アンドレアス・ワイガンド『アマゾノミクス』


何よりもこの邦題は酷いだろう。このタイトルからはアマゾンのビジネスの仕組みと、それを支えるデータサイエンスについて書かれているように見える。しかし本書はアマゾンの話を中心としたものではない。出てくる企業の話ならフェイスブックが一番多い。そもそも著者はアマゾンの元データサイエンティストだが、書いているスタンスはアマゾンからまったく別である。この邦題は原著への冒涜と、読者への詐欺に近いものだ。原題は「人々のためのデータ いかにしてプライバシーなき経済をあなたのために機能させるか」といったものか。原題が適切に表現しているように、いまは巨大テクノロジー企業に囲われている様々なデータを開放して人々のもとに取り戻し、人々のために役立てよう、という趣旨の本だ。"Data for the people"という言い方は、行政を権力者のためでなく人民のものに取り戻すというリンカーンのゲティスバーグ演説を背景にしたものだろう。

本書には、ソーシャルネットワーク上のデータ、IoTなどのセンサーデータ、スマートフォンなどが生み出すライフログといった個人に関する膨大なデータから、どのようなサービスが生み出されているかの実例が極めて豊富。かなり膨大で、事例集としてそのまま役に立つレベルだろう。しかし著者の問題意識は、日々生成されるこれら膨大な個人データが、企業に捕らわれていることにある。すでにこうしたデータは、個人を容易に特定し、リスク判定や将来予測から個人の今後をも判定してしまう。例えばソーシャルネットワーク上でどのような人々とつながっているかで、貸出利率が決まる仕組みなど。これはデータを政府が独占活用するビックブラザーの時代でないにしろ、巨大企業が個人のデータを握り、コントロールし、決定する時代だ。

これに対して、著者はわれわれが自らに関するデータを共有すれば、それにともなうリスクを上回る、本質で明らかな価値が生まれると信じる(p.10)。われわれが個人や社会として、どのような未来を望むかを決めることはテクノロジーには決してできない。われわれの未来に重大な影響を及ぼす基本ルールに関する意思決定を、データ企業の手に委ねてはならない(p.18f)。われわれは受身的な消費者の意識を捨てて、ソーシャルデータの共同制作者という主体的な意識を身につけるべきだ(p.30)。個人のためのデータにより、決定権を企業から個人に取り戻すことが何より重要なのだ(p.301)。

鍵となる要素は2つ。われわれがデータ企業に対してすべてを開示するのと同じように、企業側にもわれわれに対して透明性をもたせること。データの使い方について、われわれ自身が一定の決定権を握ること。すなわちデータの透明性と主体性だ(p.10, 21-24, 163)。

プライバシーという概念は現代において薄れてきている。プライバシーという概念は、煙突が普及した17世紀に生まれた。煙突ができて暖炉の煙が部屋に充満しなくなり、人々は窒息を恐れずに部屋や家を締め切れるようになったのだ。しかしビッグデータの時代では個人は容易に特定できてしまう。現代ではプライバシーは幻想である(p.71)。

こうしたプライバシーにかかわるデータを扱う企業を、われわれは慎重に評価しなければならない。単にオプトイン・オプトアウトの仕組みがあればよいのではない。必要なのはデータの発生や取得の時点でコントロールすることではない。データを持ち利用している会社をどうコントロールするかの発言権を確保することだ(p.218)。そのために、著者はデータの透明性と主体性を確保するための6つの権利を挙げる(p.219-221)。自分のデータへのアクセス権、データ会社の監査権、データの修正権、データをぼかす権利、データの設定変更の権利、データを移行する権利。データ会社の監査については、データセキュリティの監査結果の公表とデータに関わる人の身元調査を求めている(p.233-236)ほか、監査の5つの観点を挙げる(p.240-242)。

われわれにはデータ会社を横並びで評価するダッシュボードが提供されるべきだ。ユーザーが自らのデータを提供するかどうか、このダッシュボードを見ながら判断できるのが著者の願い(p.255-257)。このダッシュボードには例えば、プライバシーデータを提供したらどれだけのリターンがあるか、というプライバシー効率が挙げられている(p.242-253)。けれども、提供量はユーザーがそのデータを入力するのに要した労力だろうか。簡単に入力できてもプライバシー性の高い情報はあるだろう。データからのリターンは利用頻度などだろうか。それで測れるのだろうか。

本書には企業がデータを独占して様々なサービスに活かしている様子もあれば、著者が望むオープン化の方向への例もたくさんある。医療情報を患者個人に開放するオープンノートの話などは大いに参考になる(p.325-327)。

著者の言うことは説得力があるとはいえ、理想論に過ぎるように見える。例えば、パーソナライゼーションのアルゴリズムは公開されていない場合が多く、ユーザーが簡単にオフにできるべきだという(p.155)。しかしアルゴリズムの公開などなされないだろう。データを容易に移行できるようにするには、どんなデータを取得してどのように保持しているかが明らかにされなければならない。しかしこうしたことは、まさにデータを活用する企業のきわめて核心的な利害である。それはデータサイエンティストとしての著者がもっとも理解しているはずだ。また、消費者はあらゆる商品の生産地、製造ラインの状態、店頭までのルートの情報アクセスを保証されるべきという(p.297)。ここには生鮮食品も含めるというから、膨大なコストがかかり、現実的ではないだろう。

本書にはアメリカ型(というより西海岸的な)個人主義の傾向が色濃くみられる。データは揃ったのだから我々は主体的に判断しなければならない(p.338)。すべてのデータは明らかにされ、人々はそれらをもとに主体的に判断し決定しなければならない。最後にプラトンの洞窟の比喩が出てくるのが、この啓蒙主義的トーンを象徴する(p.339-341)。

けれどもデータ開示の現実性とは別に、人々は自分に関する膨大なデータを前に、判断できるのだろうか。過剰なデータは情報量を増大させるというより、ノイズを増幅させるのではないだろうか。もちろんデータ企業に独占させたままでよいというわけではないが、開示されれば解決への道が開かれるだろうか。プライバシーなき社会で人々はどう生きるのか。複数のアイデンティティ、n個の性・・・もしかして我々はもうすでにそうやって生きているのではないか。

山本拓・竹内明香『入門 計量経済学』


計量経済学のよい入門書。計量経済学はデータサイエンスからとても近いところにある、あるいはその一部とも言える。経済データを使って相関関係を分析する。中心的なツールは多変数線形回帰。基本的な手法だがその有効範囲は広い。機械学習の入門書とはまた違う趣の記述になるので、別の観点から同じ問題を見ているようで面白い。

特に印象に残ったところは、残差が同じなのに決定係数が異なる例。非説明変数が異なる場合は、決定係数によるモデルのフィットの単純な比較は困難との注意(p.109-112)。また、系列データに対するダービー=ワトソン統計量と、系列相関がある場合のコクラン=オーカット法の解説は平易でとてもよい。けれども、単位根検定が出てこないのはなぜだろう(p.195f)。

池内孝啓ほか『PythonユーザのためのJupyter[実践]入門』


リファレンス的に使える良書。Jupyter Notebookについての入門書に見えるが、書いてある事柄の比重としてはMatplotlibとBokehによるグラフ描画の話が大きい。後は少しPandasについて。Jupyter Notebookについては基本的な動作や、Cloud DatalabやAzure Notebookのクラウド版についても扱われている。とはいえ中身のほとんどはグラフ描画について。こういうのはまとまった本を一冊持っておくとリファレンスとして使えるので、MatplotlibやBokehについてのリファレンス本と見たほうがよいだろう。願わくばBokehよりはSeabornを扱ってあるとよかった。

Jupyter Notebook上でPandasを使ってデータセット作成や前処理を行い、結果をMatplotlibで描画するという一連の流れが学べるので、データサイエンティストやデータエンジニアの初歩にはよい本だろう。

マルティン・ハイデガー『現象学の根本問題』


ハイデガーの1927年マールブルク大学夏学期講義録。『存在と時間』刊行直後の講義で、『存在と時間』で論じられたテーマが異なる視点で語られている。戦前の日本から流布していた私家版からの翻訳。もともと、全集邦訳版に収められているものがあまりに意味不明な悪訳のため、版権の問題で私家版の翻訳という妙な形になっている。講義録ということもあり読みやすい。各講義時間の冒頭に語られた、ここまでの振り返り(前回のおさらい)があるのが助かる。実際の講義を速記で記録したものだが、「みなさんにも一緒に論じてもらいたい」(p.13)とある割には学生からの質問とかは一切ない。ひたすらハイデガーが話している形になっている。

内容はハイデガー得意のスタイル、つまり西洋哲学史上の古典的テキストを細かに読解しながら、自らの観点からそれらテキストが何を言えなかったのか、それはなぜなのかを明らかにしようとする。このスタイルはテキストの新しい読み方を提示するし、論じているものが具体的なので、とても面白い。第一部では存在に関する4つの伝統的なテーゼを取り上げている。カントの「存在はレアールな述語ではない」に代表されている、神の存在証明から始まる現実存在の知覚における位置づけ。アリストテレスと中世哲学を中心とする、本質存在essentiaと現実存在existentiaの違い。再びカントに戻り、広がりあるものres extensaと思考すものres cogitansという2つの存在者の区別を道徳論から見る。そしてアリストテレス、ホッブス、ミル、ロッツェを論じる繋辞としての存在。この4テーゼの後の第二部は、ハイデガー独自の時間論、テンポラリテートの展開としての現存在の存在了解を扱う。こちらはせいぜいプラトンが少し出てくるだけで、古典的テキストの読解を中心とした議論というよりは、あまり具体的ではない独自の議論が続く。

ハイデガーによれば、哲学とは存在についての学、つまり存在論。哲学とは、存在とその構造とそのさまざまなありうべき様態についての理論的、概念的な解釈である。哲学以外の他の学問はみな、存在でなく存在者を主題としている(p.27-32)。こうした存在と存在者の差異こそ、ハイデガーがつねに論じ求めるもの。そのためにハイデガーは、現存在という名でわれわれ自身(この「われわれ」が何を、どこまでの範囲で指示しているのか私にはよく分からないが)、つまり存在者をつねに了解している存在者を通路とする。とはいえ、存在者に近づく可能性、存在者を解釈する仕方は歴史的に変わりうる。こうしたハイデガーの存在論的探求も歴史的伝統に規定されている。古典的テキストを丹念にたどり、その前提と限界を明らかにする、解体Destruktionと呼ばれる手続きは、そうした規定を知るためにが必要とされる(p.45-47)。

カントの神の存在証明から始まる第一テーゼの議論はクリアでとても面白い。トマス・アクィナスは、われわれ人間は神が何であるか、神の本質を知っていないのだから、神の概念から事実存在の必然性が証明できるかは分からない、という不可知論に帰着する。一方でカントは、事実存在はそもそも概念の規定に属するものではないと論じている(p.58-60, 73)。事実存在(現実存在)はカントにおいては知覚において与えられるものとされる。ここでのカントの論じ方は不明瞭だとハイデガーは見ている。知覚の構造について、ハイデガーは代わりに彼の時代の志向性の議論を持ってきている。現存在が実存するということは、志向的な構造を持ってるということ。ある意味で現存在はつねに「外」におり、現存在には外部はなく、それゆえ内部というものもない(p.111-114)。ここでの志向性の議論はとても参考になる。

続く第二テーゼは、第一テーゼの解明では否定的な議論に終わった現実存在と本質の違いを正面から取り上げる。この議論が本書の中核をなすだろう。ギリシャ、中世哲学、カントのテキストに分け入りつつ、それぞれの論じ方を取りまとめていく。本質と事実存在の区別は、可能的なものが現実性へどう移行するか、すなわち現実化にある。中世においては、この現実化は神による創造に求められる。神による創造によって、存在者は現実存在するようになる。しかし、現実化については歴史上いくつもの考え方があり、創造として考えられるべきかは別問題である(p.165)。実際先に見たとおり、カントは現実性を主観の認識作用から考えている。近代では、何かが現実存在しているかどうかは、主観に何らかの作用を及ぼすか、あるいは他のものに作用を及ぼすものという意味で捉えられている(p.173)。

ここでハイデガーは、古代ギリシャ哲学の存在論は制作的態度から考えられるとする。ハイデガーによれば本質ousiaは所有物という意味でもある。ギリシャでは、あたかも職人が何らかの範型を参考として物を作るように、本質を似姿として存在者が制作される。ギリシャ哲学の存在論は制作をモデルとしていると議論する。とはいえ、自然や宇宙は古代ギリシャでは永遠で生成しないものと捉えられている。これらは制作されるという存在論とは別個の捉え方に見える。しかしハイデガーは、これらの制作されない存在者も制作の素材として考えられるから、なおも制作的態度のうちにあるとしている(p.190-197)。明らかに制作モデルから逸脱している存在者を論じるこの議論にはやや無理があるように思える。ギリシャでは地上の運動と宇宙の運動がまったく別個のものと考えられていたように、別個の存在論があったと考えてもよいのではないか。むしろ、制作に先立って制作されないものが存在する必要があるのだから、制作モデルの存在論は二次的な考えとも言える。神による創造という中世キリスト教の観点が読み込まれているように思える。それが中世でのアリストテレス受容だったとはいえ。

第三テーゼ、広がりあるもの(延長)と思考するものの区別はデカルト的区別だが、メインの議論はカント。それも道徳的人格性の議論が扱われる。確かにカントは道徳論において事象と人格の区別を根本的なものとして立て、人格は手段としてでなく目的として扱われるべき独自の存在者としている。したがって延長と思考の区別はカントの道徳論において際立つ。これは視点の広い鋭い論じ方と感じた。とはいえカントは、目的としての道徳的人格の存在様態への根本的な問いを立てていないとされる。 カントにおいて人格は物自体、実体として神によって制作されたものと考えられている。つまり完全に伝統的な古代中世存在論の地平のうちで展開されているとの読み(p.244-252)。するとカントにおける現実化の原理は、延長について主観の認識作用、人格について神による創造があるということだろうか。

第四テーゼは繋辞としての存在、すなわち論理学における「SはPである」の「である」を巡る議論。アリストテレスの論理学のみならず、ここでは唯名論と実念論の議論を背景にホッブス、ミル、ロッツェが出てくるのが興味深い。とはいえ、1927年の講義なのに当時の論理学をまったくフォローしていないのは妙でもある。アリストテレスの伝統的論理学以来の革命とされた数理論理学の流れは、1927年のハイデガーにどのように届いていたのだろう。例えばフレーゲだと「SはPである」という命題は関数適用の形になっており、そもそも繋辞としての「である」という論点自体が存在しない。そして日常言語の構造は事象の構造を正しく反映しておらず、繋辞にまつわる問題はほぼ擬似問題という見解は、ハイデガーにも近いもののように見える。

さて第二部の時間論は具体的でなくあまり面白くなかったので、真理概念の話をメモしておく。ハイデガーは真理と虚偽に関するロッツェの議論をフォローした後、真理の概念を論じている。それはおなじみの、真理とは明らかになっていること、非隠蔽性だという議論。そして非隠蔽性としての真理は現存在の存在了解に含まれており、現存在が存在者と出会うことを可能にしている。この議論はアリストテレス解釈から取り出される(p.352-365)。アリストテレスのテーゼの解釈としては通用するかもしれないが、真理と虚偽という対概念はどうなったのだろう。真理は現存在の実存構造だから、もともと現存在が存在する限りあるとすると、懐疑主義に抗して真理の無時間的な妥当性を議論する可能性を閉ざしてしまう。これについて、「前回のおさらい」の中でハイデガーは微妙な発言をしている(p.376f)。例えば、ニュートンの法則は発見される前には露呈されておらず、したがって真ではない。とはいえ偽であったわけでもなく、発見以前には真でも偽でもないのだ。発見されたとき、法則は通時間的に真であるものとして発見される。真理は非隠蔽性だから、存在者が現存在に対して現れていればそれが真理である。したがって、現れたものが本当にそうなのか、了解が正しいのかどうか、という真理と虚偽の議論はここには成立しない。そしてまた、真理は現存在の存在了解に含まれるものだから、現存在がいなければ真理は存在しない。ハイデガーは真理とは非隠蔽性のことなのだから、これで構わないと述べている。これはどうも、真理という概念を非隠蔽性に置き換え、本当の真理概念についての問いを回避しているようにみえる。逆説的に言うと、非隠蔽性として真理概念を読み替えたことにより、真理についての問いが隠蔽されてしまっている。こうした隠蔽はなぜ起こっているのか。何がハイデガーを真理への問いから遠ざけたのか。

けれどもそうした本当の真理概念については、他の現存在との関わりにおいて問われるべきだという議論がありうる。すなわち、現存在は他の現存在と一つの世界を共有している。この世界の共有が、発見したものを間主観的に確証し世界了解の一致を間主観的に根拠づける可能性を構成している、と(p.477)。とはいえそれは、真理を確証する手続きの話であって、例えば命題が真であるとはいかなることかを説明するものでないだろう(検証主義的真理概念はひとまず置いておくとして)。真なる命題は非隠蔽性としての真理を必要とせずとも<存立>する、という以下の議論は少し混乱しているか、あるいは思わず何かを言ってしまったといった感じがする。
ありのままに存在するためには、自然は真理すなわち露呈されている状態を必要としません。真なる命題で意味されている事態<2×2=4>は、お望みとあらば、これに関する真理といったものが与えられていなくても、永遠に存立することができます。これに関する真理といったものが与えられているばあいには、この真理において意味されている事態が、それが<しかじかである>という点ではこの真理に依存しないことも、この真理はわかっているのです。しかし、永遠の真理が与えられているということは、[...]人間的現存在といったものが、永遠の昔から未来永劫にわたって実存するということが絶対的に明証的なかたちで証明されないうちは、一つの恣意的な仮定であり主張でありつづけます。真なる言明としての<2×2=4>という命題が実際に真であるのは、現存在が実存するあいだだけです。原理的にいかなる現存在ももはや実存しないとしたら、この命題はもう妥当しませんが、それは、この命題そのものが妥当性を失ったからではありません。[...]むしろ、真理としてのなにかが発見されている状態は、発見し実存する現存在とともにしか実存しえないから、妥当しないということなのです。(p.363f)