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和田秀樹『「あれこれ考えて動けない」をやめる9つの習慣』


内容はタイトルの通り。9つの習慣は、(1)とにかく動く、(2)できることだけやる、(3)他人に頼る、(4)計画しない、(5)休む、(6)失敗してみる、(7)感情にしたがう、(8)真似する、(9)法則をみつける。

世の中に完全に予測できることはなく、つねにあらゆることはリスクを伴っている。しかしリスクを気にしてばかりでは前に進めない。前に進めなければ、何の結果も得られない。リスクに対しては適切に損切りをすることにより、完全ではなく安全を確保する(p.31-34)。リスクを気にして不安になって動けないことへの一番の薬は、動くことだ(p.24)。

ともかくも行動してみることが重要なのだから、好きなことだけ、好きな順にやってしまおう(p.56f, 64-68)。そうすれば気分良く課題が片付いていくし、無理なものは結局なんとかなるものだ。ただ、はじめから好きなことだけをできるようになった人はいない。好きなことだけができる環境を整えるように動いていくことが必要(p.170-173)。そのためには、適切に人の力を借りる、人に頼ること。これが一番のポイントかもしれない。人に頼るのが上手い人がいる。一方、自分で何でも抱え込んでしまう人もいる。小さなことをお願いすることで、他人に頼ることを練習してみよう。他人に頼れる人が結果を生む。できなくて当たり前なのだから、素直に人にお願いすることを体得すること(p.100-104)。

それでもなかなか行動に移せなくなっているときは、疲れていることを疑おう。そしてすぐに休む。休んでなにもしないでいると、やがて何かしたくなるものだ(p.126f)。

マイケル・ガザニガ『脳のなかの倫理』


脳神経科学者が生命倫理の問題について語ったもの。脳神経科学はその発展によって、意識、人格、知能といった領域に示唆を与えつつある。著者の主張するところ、これからの生命倫理はそうした脳神経科学の結果を踏まえていかなければならない。著者は脳神経倫理学を、病気や正常、死、生活習慣といった、人々の健康や幸福に関わる問題を、土台となる脳メカニズムの知識に基づいて考察する分野としている。脳神経倫理学は治療法を模索するものではない。脳から得られた知見に基づく人生哲学を模索する研究分野であるという(p.16)。

扱われているトピックは、まず人の生死の境界線である、胎児の人格の成立期と老化による人格の消失。そしてデザイナー・ベビー、薬による知能の改善。さらに自由意志と責任能力の問題。そして宗教の起源と人類共通の倫理について。

どの話題についても脳神経科学における実験や理論などが扱われている。生命倫理の議論そのものの多くが、科学技術によって可能になったために発生してくる問題でもあることから、科学技術によって何が可能であるかという情報は本質的だ。こうした話題は豊富な本だが、書かれている倫理学上の見解はあまり深みがないという印象を持った。生命倫理の諸問題に回答を与えようとした本ではない。あくまで情報提供や議論の整理、またエッセイ的に書かれていると考えたほうがよいかもしれない。

科学技術は異常なものを作り出してしまうようにイメージされる。著者によれば、科学が掻き立てる不安は、こうした異常なものが作り出されるかもしれない、というものではない。むしろ、科学によって自分という存在への見方が変わることへの恐れだという(p.19)。そして我々はこうした見方の変化にはやがて順応するのだろう。本書には基本的に、楽観論が溢れている。例えばデザイナー・ベビーの問題については、たしかにそうした試みをする人はいるだろう。しかし、たいていの人間は賢明であり、生命倫理が危惧するようにはならないという(p.87-89)。さらに、知能を増強する薬(記憶力の増強とか)については、それが普及しても、我々はそれに合わせて価値観を変えていくだろう。いま何かの規制などが必要なわけではない、という(p.125f)。こうした議論はあまり支える議論なしに出ている。

ニューロンの絶縁物質であるミリエンの減少が生み出す脳の老化(p.51f)に対しては、安楽死を認める。安楽死を選択できるような社会があってもよいだろう、と(p.63f)。ここもあまり議論がない。さらに自由意志の問題については不満が残る。自由意志の問題を論じ始めるが、いつの間にかそれは責任概念に置き換えられる。そして責任概念は社会的に決まるものと締められる。自由意志の問題についての著者の意見は追えないし、また責任概念が自由意志をどう我々が認めるかと独立に社会的に決まるとも思えない(p.143-147)。

人間の脳は信じやすきもの。信念の形成について著者は思い入れがあるようだ。宗教体験や幻聴を側頭葉てんかんと関連付けている。著者によれば、パウロやムハンマドなど偉大な宗教指導者には、側頭葉てんかんの徴候が見えるという。しかしながら、ゴッホやドフトエフスキーといった芸術家にもこの徴候は認められるとしており、結局何を位置づけようとしているのかは読めない(p.216-219)。

なお、私たちの認知的社会的枠組みと無理なく調和する宗教的概念ほど生き残る、として三位一体論を取り上げている。神を人と考えたから、三位一体論は2000年も残ったのだと(p.213)。極めて複雑な、三位一体論の成立過程を考えれば、そう簡単な話ではなかろう。また逆に、認知的社会的枠組みに収まらないものこそ、すぐれて宗教的に位置付けられるとも言えないか。神を人と考えることを避けるユダヤ教やイスラム教はどうなのか。人間と似たものとは考えられていない、「天」の概念をもつ儒教はどうなのか。それらは明確に生き残ってきたのであり、おそらく逆に、そうした宗教的概念が我々の認知的社会的枠組みを規定することもあるのではないか。

著者は、「道徳上の問題で難しい選択を迫られたとき、すべての人間が生物として同じ反応を示す、つまり人間の脳にはある種の倫理観がもともと組み込まれているという考えを私は支持したい」(p.21)と書く。すべての人に共通する道徳性を判断する脳内プロセスがある。これは無意識に働いて、物事の善悪は我々に本能的に感じられる。アダム・スミスの道徳感情論みたいな議論だろうか。しかし我々は道徳律が正しい理屈を考えたがるため、倫理の議論は混乱する(p.231-234)。

とはいえ、生物的に同一の倫理を感じる脳内プロセスの存在は、あまり納得できない。人種、文化、そして時代を超えてすべて共通する倫理感が存在しうるのか。その内容は何なのか。どういうものがそうなのか、私にはよく分からない。それは硬直した命題ではなく、「状況に応じて決まり、感情の影響を受け、私たちの生存の可能性を高めるために作られた倫理」(p.240)だそうだが、それはどういうものなのか。私たちの生存でいう「私たち」とは、個体なのか集団なのか種なのか。人類共通の倫理というものが個別的倫理命題でないとしたら、状況から倫理を導出する倫理構成能力みたいなものなのか。だとすると、状況が違えば倫理も違ってしまうが、それがどのような点で人類共通だと言えるのか。倫理は普遍性を主張するものではないのか。むしろこれらを追究するのが脳神経倫理学の課題なのか。
私たちは、人類共通の倫理が存在するという立場に立って、その倫理を理解し、定義する努力をしなければならない。信じ難い考え方であるし、一見すると荒唐無稽にも見える。だが、ほかに手立てはない。世界について、また人間の経験の本質について、私たちが信じていることは実際には偏っている。また、私たちが拠り所にしてきたものは過去に作られた物語である。ある一面では、誰もがそれを知っている。しかしながら、人間は何かを、何らかの自然の秩序を信じたがる生き物だ。その秩序をどのように特徴づけるべきかを考える手助けをすることが、現代科学の務めである。(p.241)

岩波データサイエンス刊行委員会編『岩波データサイエンス Vol.5』


本巻はスパース性について。データ量に比べてパラメータ数が多い場合、そのままでは学習が難しい。データがスパースである場合、L1ノルムを用いた罰則項を入れるなどのテクニックにより、学習が可能になる。逆に、データ量がパラメータ数に比べて小さいと、学習率を一つに固定して選択されるパラメータは実際とは異なる誤った結果になる可能性が高くなる。この場合、回帰分析は容易ではない(p.24f)。

スパース性といっても様々な場面があり、スパース化が3つに分類されて書かれている(p.48-50)。上に書いた、lasso回帰で余分な変数を減らすというスパース化。各標本に重みを付けて最適化することにより、標本数(データ量)のほうを削減するスパース化。そして変数間の関係のうち重要なものを特定する関係のスパース化。

情報を削減するという意味で画像処理への応用が大きい。例えば、画像処理におけるスパースランドモデルの威力には驚く(p.68-73)。ノイズを含む画像から、元のきれいな画像を見事に復元している。あるいは、品目数とその組み合わせに対して顧客数が少ない、レコメンデーションの場面でスパース化の手法が有効と扱われている。

森三樹三郎編訳『墨子』


森三樹三郎による編訳。原文は掲載されておらず、訳文のみ。墨子は春秋戦国時代は儒教と並ぶ隆盛を誇ったが、衰退。散逸したテキストが集められたのは清朝になってからという。そのため、テキストの重複、欠損、意味不明な箇所も多い。どう見ても墨子の時代より後に書かれたものが、墨子に帰せられているものもある。訳者は墨子の思想の特徴をよく表すテキストを選出し、訳出している。

墨子の思想と言えば兼愛交利。国の治安が乱れるのは、各自が気遣う相手を限定している(別愛)から。すべての人が自分自身を愛するように他人を愛し慈しめば、国の乱れはなくなる(p.26-29)。もとより兼愛は難しいが、基本的には他人を愛するものは自然と他人からも愛される(p.33)。君子が兼愛交利を尊び、奨励すれば、民はみな従うだろう(p.51)。
兼というのは、大国の地位にあるものが小国を攻めず、大家の地位にあるものが小家を乱さず、強者が弱者をおびやかさず、多数が少数に横暴をせず、智力あるものが愚者を謀ることなく、貴人が賤人におごらないことである。これらの事柄についてみると、そのいずれもが、上は天を利し、中は鬼を利し、下は人を利するものであって、三利を兼ね備えている。(p.107)

この兼愛の思想は究極的には、中国には珍しい有神論に支えられている。天の摂理(天志)は正義と平穏を望んでいる。この摂理を叶えることこそ政治である(p.93-99)。なぜ天志は正義と平穏を望むかといえば、それは人間とのGive&Takeの結果。すなわち人々が食物を育て、供物を備え、祭祀を行うことにより、天に「食糧」を供給しているから、そのお返しとして天は人々を愛するはずなのだ(p.115)。ただし、この天志の存在については故事を引くのみであって、思想的にしっかりしていない。これを極めていけば宗教に至るだろうし、宗教に至らなかったところが(訳者も言うように)墨子の思想の弱点だったのだろう。なお、この天志は天命(運命)とは異なる。天命は人の努力を奪うものとして否定されている。

他に目に留まるのは、墨子の思想におけるリアリズム。これは儀礼を重んじる儒家への批判として明確になっている。そもそも議論を評価する3基準として過去の事績、庶民に聞いた事実、政策実行の結果が挙げられ、リアリズムが感じられる(p.151, 159)。誰が君子かは天命によって与えられるのではなく、人々の間からふさわしい者を選ぶ(p.15)。儒家が重んじるような大規模な葬礼は、国を富ますことにつながらない。葬礼の費用、殉死者の存在、喪の期間による経済活動の損失が大きすぎる。大規模な葬礼は過去からの慣習に従ってるだけで、根拠はない(p.79-91)。また、過度な音楽も批判している。音楽には多くの人員と金額を費やすが、国の治安に寄与するものではない(p.142-149)。さらに、正しい服装をしてこそ正しい行いができる、という考えを批判している(p.205f)。こうしたリアリズムは儀礼を重んじる中国では特色ある思考であり、有神論と並んで墨子の特徴をなす。

兼愛交利から来る非攻論も、墨子の特徴。これは兼愛から来る思想であると同時に、戦争は互いに経済的損失をもたらすものであり、割に合わないものだというリアリスティックな思想でもある。だが古代の聖王たちは多く他国の侵略を繰り返した。そこで墨子は古代の聖王の戦争は攻でなく誅だとする。こうして悪しき国の討伐は認められる。とはいえ、討伐ばかりに頼らず、寛大を持って処するべきだとする但し書きがつく(p.65-71)。だが「正しい戦争」など言い出したら、議論としてはおしまいだろう。古代の聖王たちが他国の侵略を繰り返したことは、墨子にもさすがに否定しきれないのだろう。

櫻井弘『上手な話し方の技術』


対人コミュニケーションに関わる軽い本をいくつか買ってきたので、ざっと読んでいくことにする。この本は話し方の技術として、声の出し方のような内容にかかわらない部分と、内容の組み立て方の二つに分かれて書いている。

スピーチについてはサンドイッチの法則というのが目に留まった(p.18-27)。これは自己紹介のようなスピーチで、挨拶・名前を名乗るということから始めて、最後に名前を名乗る・挨拶を繰り返して終わるという形式。一見、再度の名乗り・挨拶は不要なように見える。だがこうすることで人の印象にも残りやすく、またきちんとスピーチが締まる。

内容については、話す事柄を全文書き下しておくのではなく、手元に置けるような4面メモで書くということが解説されている(p.100-111)。これは紙を四つ折りにしたとき、それぞれの面に主題、主題を支える具体例、要点の強調、印象に残る結びを書いておくもの。スピーチの各ポイントとなる事項なので、詰まったらそこを見直せば良いと。

こうしたスピーチの場面ではなく、日常的なコミュニケーションでどう会話をつないでいくかも重要。そうした場面では、相手の思いがけない反応にどう切り替えして応えるかが鍵となる。そうした場面の話(p.86f)はあれど、まさにそれをどうやるかが難しいのではないかと。