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森三樹三郎編訳『墨子』


森三樹三郎による編訳。原文は掲載されておらず、訳文のみ。墨子は春秋戦国時代は儒教と並ぶ隆盛を誇ったが、衰退。散逸したテキストが集められたのは清朝になってからという。そのため、テキストの重複、欠損、意味不明な箇所も多い。どう見ても墨子の時代より後に書かれたものが、墨子に帰せられているものもある。訳者は墨子の思想の特徴をよく表すテキストを選出し、訳出している。

墨子の思想と言えば兼愛交利。国の治安が乱れるのは、各自が気遣う相手を限定している(別愛)から。すべての人が自分自身を愛するように他人を愛し慈しめば、国の乱れはなくなる(p.26-29)。もとより兼愛は難しいが、基本的には他人を愛するものは自然と他人からも愛される(p.33)。君子が兼愛交利を尊び、奨励すれば、民はみな従うだろう(p.51)。
兼というのは、大国の地位にあるものが小国を攻めず、大家の地位にあるものが小家を乱さず、強者が弱者をおびやかさず、多数が少数に横暴をせず、智力あるものが愚者を謀ることなく、貴人が賤人におごらないことである。これらの事柄についてみると、そのいずれもが、上は天を利し、中は鬼を利し、下は人を利するものであって、三利を兼ね備えている。(p.107)

この兼愛の思想は究極的には、中国には珍しい有神論に支えられている。天の摂理(天志)は正義と平穏を望んでいる。この摂理を叶えることこそ政治である(p.93-99)。なぜ天志は正義と平穏を望むかといえば、それは人間とのGive&Takeの結果。すなわち人々が食物を育て、供物を備え、祭祀を行うことにより、天に「食糧」を供給しているから、そのお返しとして天は人々を愛するはずなのだ(p.115)。ただし、この天志の存在については故事を引くのみであって、思想的にしっかりしていない。これを極めていけば宗教に至るだろうし、宗教に至らなかったところが(訳者も言うように)墨子の思想の弱点だったのだろう。なお、この天志は天命(運命)とは異なる。天命は人の努力を奪うものとして否定されている。

他に目に留まるのは、墨子の思想におけるリアリズム。これは儀礼を重んじる儒家への批判として明確になっている。そもそも議論を評価する3基準として過去の事績、庶民に聞いた事実、政策実行の結果が挙げられ、リアリズムが感じられる(p.151, 159)。誰が君子かは天命によって与えられるのではなく、人々の間からふさわしい者を選ぶ(p.15)。儒家が重んじるような大規模な葬礼は、国を富ますことにつながらない。葬礼の費用、殉死者の存在、喪の期間による経済活動の損失が大きすぎる。大規模な葬礼は過去からの慣習に従ってるだけで、根拠はない(p.79-91)。また、過度な音楽も批判している。音楽には多くの人員と金額を費やすが、国の治安に寄与するものではない(p.142-149)。さらに、正しい服装をしてこそ正しい行いができる、という考えを批判している(p.205f)。こうしたリアリズムは儀礼を重んじる中国では特色ある思考であり、有神論と並んで墨子の特徴をなす。

兼愛交利から来る非攻論も、墨子の特徴。これは兼愛から来る思想であると同時に、戦争は互いに経済的損失をもたらすものであり、割に合わないものだというリアリスティックな思想でもある。だが古代の聖王たちは多く他国の侵略を繰り返した。そこで墨子は古代の聖王の戦争は攻でなく誅だとする。こうして悪しき国の討伐は認められる。とはいえ、討伐ばかりに頼らず、寛大を持って処するべきだとする但し書きがつく(p.65-71)。だが「正しい戦争」など言い出したら、議論としてはおしまいだろう。古代の聖王たちが他国の侵略を繰り返したことは、墨子にもさすがに否定しきれないのだろう。

櫻井弘『上手な話し方の技術』


対人コミュニケーションに関わる軽い本をいくつか買ってきたので、ざっと読んでいくことにする。この本は話し方の技術として、声の出し方のような内容にかかわらない部分と、内容の組み立て方の二つに分かれて書いている。

スピーチについてはサンドイッチの法則というのが目に留まった(p.18-27)。これは自己紹介のようなスピーチで、挨拶・名前を名乗るということから始めて、最後に名前を名乗る・挨拶を繰り返して終わるという形式。一見、再度の名乗り・挨拶は不要なように見える。だがこうすることで人の印象にも残りやすく、またきちんとスピーチが締まる。

内容については、話す事柄を全文書き下しておくのではなく、手元に置けるような4面メモで書くということが解説されている(p.100-111)。これは紙を四つ折りにしたとき、それぞれの面に主題、主題を支える具体例、要点の強調、印象に残る結びを書いておくもの。スピーチの各ポイントとなる事項なので、詰まったらそこを見直せば良いと。

こうしたスピーチの場面ではなく、日常的なコミュニケーションでどう会話をつないでいくかも重要。そうした場面では、相手の思いがけない反応にどう切り替えして応えるかが鍵となる。そうした場面の話(p.86f)はあれど、まさにそれをどうやるかが難しいのではないかと。

北野宏明『Dr.北野のゼロから始めるシステムバイオロジー』


著者が開拓してきたシステムバイオロジー(Systems Biology; 英語表記はシステムが複数形)についての入門的解説。システムバイオロジーは1990年代から提唱されている。生命科学の研究では、遺伝子やタンパク質といった「モノ」それぞれを相手にする研究がメインとなってきた。こうした研究はそれらを含むシステムの動態という、物理的具体性を伴わない「コト」の研究への拡張が考えられる(p.13)。

タンパク質などを構成要素とするシステムがどのように振る舞うかを研究しようとするのが、システムバイオロジーとなる。その方法論の特徴は計算モデルの利用だ。遺伝子やタンパク質の現実の動きを、計算モデルとしてモデル化し、in silicoでのシミュレーションという実験を組み合わせる。in vitroやin vivoでの実験結果と、in silicoでのモデルからの予測を対照させて進む。計算モデルを重視する点ではバイオインフォマティクスと類似している。著者によれば、例えばバイオインフォマティクスではある現象を引き起こす遺伝子が、どのように発現するが分析される。もしさらに、この発現に複数の遺伝子が関わるのだとすると、遺伝子発現制御ネットワークの同定や分析といった、システムバイオロジーのアプローチが必要とされる(p.25f)。

また生命現象をシステムとして扱う点では、複雑系のアプローチとも似ている。しかし自己組織化などの複雑系による生命現象の説明は、大抵のところ単一の組織に関するもの。生存と子孫の反映を評価関数とする、進化的選択や最適化といった視点を取り入れることで、複雑系の研究との違いをうたっている(p.33-35)。

すなわち生命現象をなす各要素からなるネットワークをモデル化し、モデルによる予測と実際の現象を並行して検討するアプローチがシステムバイオロジーとなるだろう(p.146f)。このアプローチは、例えばGEが提唱しているDigital Twinの考えに近いものを感じる。とすれば、モデル上での予測の高度化は研究の進展に大きく寄与する。予測の高度化を人工知能と呼ぶとすれば、生命科学は人工知能により置き換えられるのではなく、人工知能と人間の共同作業により発展する(p.141f)。著者はこの姿をAdvanced Intelligenceと呼んでいる。例えば機械学習によって、人間が理解できないほどの特徴量の組み合わせによる症例や薬効の分類が可能になる。ここからは、異なる薬の組み合わせで新たな効果を生むコンビネーションドラッグの可能性が拓ける。膨大な組み合わせからの有効なものの発見は、機械学習にふさわしい。製薬会社は創薬一辺倒から、患者の診断に基づいて複数の薬を組み合わせるサービス産業への展開が予想される、といった展開が述べられている(p.130-134)。

他には創薬プロセスのフェーズ分け(p.59)が役に立った。基本的なものだろうが、標的分子の選択と検証、リード化合物の発見・最適化、前臨床開発、臨床開発、商品化からなる。また計算モデルにおける、モデルリスクとパラメータリスクの区別(p.68-70)。前者はモデルの表現力が足りずにデータのパターンを学習できないリスク。後者はパラメータが複雑すぎて適切な最適化ができないリスク。つまり書かれていないが、underfittingとoverfittingのリスクであり、biasとvarianceのトレードオフ。遺伝子発現のロバストネスから、モデルリスクではなくパラメータリスクであると特定する具体例が述べられている(p.86-94)。

最後に、孫引きだがアーサー・クラークの印象的な言葉。高名で老齢の大家が何かが不可能だといったときには、それはたいがい誤っていて実際は可能である。それまでの研究常識で見えなくなっているところに、新しい成果のチャンスはある。
When a distinguished but elderly scientist states that something is possible, he is almost certainly right. When he states that something is impossible, he is very probably wrong. (A.C. Clarke, "Profiles of the Future", 1962)

小林昭七『続 微分積分読本 多変数』


多変数の微分積分。いきなりn次元の一般論を展開するのではなく、2変数の場合をほとんどの中心としている。外積の話で3変数に関わるので、そこだけは3変数として展開。図形の表現や、一見して思い浮かばないような反例も豊富。薄い本であるがとても分かりやすい方に入るだろう。

1変数の場合との違いは、微分関数の連続性にあるようだ。合成関数の連鎖律、平均値定理は1変数では関数の微分可能性だけが要求されるが、多変数の場合はそれぞれの偏微分関数の連続性も必要となる(p.18-21)。こうした、1変数の場合との違いにも多く配慮がされている。

他に面白かったのはラグランジュ未定乗数法の導出(p.64-68)がとても分かりやすい。さらには曲線の長さの定義と、長さの存在しない(無限大)の曲線の例(p.146-150)。連続でその微分関数も連続である関数の軌跡にのみ、長さが定義できる。また、3次元空間の曲面の面積は、それに内接する多面体の面積からは定義できないというシュヴァルツの提灯の例と、外接する接平面からの正しい定義(p.154-166)も良い議論。

最終章の線積分、面積分、体積分の関係を扱うグリーンの定理、ストークスの定理、ガウスの発散定理も2変数、3変数の場合で書かれる。最後の最後に外積記号を導入して微分形式の一般論として展開できることが書いてある。これらは多様体論へのつながりを意識して設けられたもの。こうして自然に多様体論、微分幾何学に導かれることになる。

新清士『VRビジネスの衝撃』


VRの現状について書かれた一冊。簡単な歴史、現状の使われ方、アメリカや日本の状況、これからの展開について簡潔に書かれている。内容としてはオキュラスのヘッドマウントディスプレイによるVRゲームの話がメイン。それはVRの現状がそういうものだということだろう。

VR(Virtual Reality)という言葉自体は1989年にジャロン・ラニアーという人が言い出したものだそうだ。この後、1990年台は一回目のVRブームになる。昨年2016年がVR元年と言われる今回は、二回目のブームだ(p.19-21)。ただし、2006年に始まったセカンドライフもVRブームとしているので、それを入れると三回目だろう。昔のブームと今回の大きな違いは、ヘッドマウントディスプレイによる圧倒的な没入感と、プラットフォームだという。ヘッドマウントディスプレイというデバイスができて、それをプラットフォームとして様々なものが対応し始めているのが、過去には無い点(p.72-75)。

現在の形のヘッドマウントディスプレイは、何と言ってもオキュラスが作り出したもの。オキュラスについては、創業者の天才ハッカーであるパルマー・ラッキーの創業ストーリーがやや詳しく扱われている。パルマーだけではなく、ゲーム界の伝説的プログラマーであるジョン・カーマックがオキュラスに関わることで大きく進展していく(p.95-99)。また、マイケル・アブラッシュという、多少思想的な天才プログラマーもオキュラスの鍵となっている(p.108-119)。

こうしたオキュラスのヘッドマウントディスプレイに、ユニティなどのゲームエンジンが対応し、3DCG生成(モデリング、レンダリング、物理エンジン)を容易にすることによってVRゲームが進展する(p.63-65)。ゲーム以外では、CADソフトがVR映像の出力に対応したことにより、建築物内をバーチャルに見る建築VRがビジネス化してきている(p.156-162)。

オキュラス以外でもHTCバイブ、プレイステーションVR、そして日本のヘッドマウントディスプレイのベンチャーFOVE(p.164-170)が取り上げられる。とはいえ、話のほとんどはオキュラスについてだ。

著者が引くところ、VRの衝撃の本質は「機械と人間とのやり取りの在り方を変えるユーザーインターフェイス革命」(p.199)だ。ヘッドマウントディスプレイそのものが目的ではない。むしろ、ヘッドマウントディスプレイはVR実現のための過渡期のデバイスにすぎない(p.34-36)。VRの向かう先はMR(Mixed Reality、複合現実)だという。MRとは現実と区別がつかないほどのCGを現実に重ねるもの、とされるが、AR(Augmented Reality)と何が違うのかあまり判然としない。VRからMRへの展開の箇所はやや急ぎすぎた記述(p.196-205)。

VR、とくにVirtualを「仮想」と訳すのは、日本IBMが1965年に犯した完全なる誤訳である(p.21-23)。本書はこの点が明記されていて好ましい。VRを仮想現実とみなしてしまうことが、日本と欧米のVRに対する差を生んでいるという指摘は面白い。日本でのVRアプリは、仮想的なキャラクター(初音ミクとか)とのコミュニケーションを実現させるものが主流。欧米でのVRアプリが目指しているのは、他のユーザーと同時にVR空間を体験するソーシャルVRだ(p.140-150, 169f.)。VRが普及して誰もが気軽に体験できるようになったとき、ビジネスの付加価値として残るのは他人との体験共有、ソーシャルVRの方だと著者は記す(p.185f)。

それにしてもvirtualを「仮想」と訳してはならない。ではどう訳すかは今ではどうにもならない気もする。本書はこの誤訳から逃れているが、virtualの意味について分かりやすい話を書いておく。タラバガニは「カニ」という文字が入っており、英語でもRed King Crabというのだがカニ(Crab)ではなく、ヤドカリの仲間だ。けれども見た目、漁法、流通上の扱い、料理法、食味に至るまでカニとほぼ同じ。日常生活のレベルではカニとして扱って問題ない。したがってタラバガニは実体は(=そのものの実体が何であるかを定義する生物学によれば)カニではないが、virtualにはカニなのである。このとき、タラバガニが「仮想的な」カニであるわけではない。それは実在するものだ。同様に、マーガリンはvirtualなバターだし、カペリンはvirtualなシシャモだし、カニカマはvirtualなカニの蒲鉾であろう。