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梅原猛『仏教の思想 <上>』


それは、今や仏教は重要な思想的意味をになっているのに、まだ仏教は、わが国の多くのひとびとに、あまりにも知られていない。仏教の思想の中には、多くの宝が隠されているのに、その宝にういて、わが国のひとびとは、まったく無知なのである。もしも、多くの仏教学者が、未発掘の宝石を見いだす真理の坑夫であるならば、その宝石を、日本の多くのひとびとに伝える宝石の展覧人が必要なのではないか。(p.18f)

もともとは十二巻本で出た『仏教の思想』という叢書のそれぞれに付された、著者による解説をまとめたもの。こうして(上下巻だが)一冊の本となっているが、内容は章に分かれてそれぞれバラバラだ。しかも各章ともに、もともとその巻にあった内容に合わせて書かれているので、これだけを読むとどうも完結しない。

第一章は仏教の意義を著者が推察している。仏教といっても小乗・大乗の区別から、顕教・密教、禅や念仏など多様。インドや東南アジア、チベットまで考慮入れればさらにだろう。そうした様々な仏教を通じて普遍的で、根本的な概念とは何か。著者は生死、慈悲、業の三つがそれだと言う(p.33)。この三つの概念を、西洋思想の根底にあるソクラテスやキリストと対比させて論じる。この箇所は、著者独特の専断や直感的な類推を含むものの、読みやすい。例えば生死について言えば、ソクラテスとキリストの死のシーンはそれがまさに思想のクライマックスになるようなものだ。それに対して、釈迦の死は穏やかで目立たないもの。弟子たちによって脚色されることもない(p.41-44)。また慈悲については、キリストの愛と比較。キリスト教の愛はユダヤ思想を引き継いでいると見ている。それは、ヤハウェの嫉妬深さ、非信者に対する怒りを伴う愛だという。仏教の慈悲にはそのような排他性がない、と(p.74-89)。この見解はだいぶ行き過ぎに見える。

この後の章は、もともとの各巻が対象としていたテキストに対する著者の考えや、それぞれのテキストの原著者の伝記を述べたもの。法華経を叙事詩として見て、釈迦が古来の仏と同一と詠い、永遠性に到達する物語と見たり(p.144-149)。曇鸞による中国浄土教における阿弥陀仏のイメージは、大乗仏教の空論・ニヒリズムから、絢爛豪華な阿弥陀仏のロマンティシズムへの展開という評価だったり(p.330-334)。例えば阿彌陀仏の絢爛豪華さについて言うなら、真言のマンダラの鮮やかさが対比されるべきだろう。

最澄についての評価は高い。これは納得。天台仏教は同時代ではすでにとっくの昔、中国において廃れ、田舎で生き残っているだけの仏教で、最先端の仏教は華厳仏教だった。日本で天台仏教が根付いたのは最澄がいたからだ(p.179, 184)。また、最澄が成立に向けて後年命を削った大乗戒。この一向大乗戒の特徴は道徳の内面化であり、ここにおいておそらく初めて内面道徳が確立された。一向大乗戒は最澄の純潔の精神と、堕落した南都仏教への痛烈な批判を表している(p.191-196)。

総じてこの本はもともとの叢書を補完するものであり、独立して読んでもいまひとつ。下巻はどうしようかな。

高橋威知郎、白石卓也、清水景絵『データサイエンティストの秘密ノート』


データ分析に関わりだした人が読むにはいい本。ソフトバンク・テクノロジーに所属する、データ分析歴3年未満のデータサイエンティストの失敗例を35個書いた本。こうした失敗事例から学ぶのはとても大切なこと。具体的な現場の事例に基づきながら、失敗例を公表しているのはなかなか貴重なものだろう。

最初にデータ分析のプロセスを準備、分析、報告の3つのフェーズに大別。それぞれのフェーズにあるステップを詳しく述べている。その中では、分析フェーズにある分析ストーリーステップ(p.16-19)がやや分かりづらい。ここはデータ分析の手作業レベルで何をするかを定めるとしている。データを収集するのは次のステップなので、データが見えていない状況。データがないのに手作業レベルでどうやるか決められるかどうか。ハイレベルな分析作業の定義だと、準備フェーズにあるステップと重複してしまう。

ステップの詳説の後が35の失敗事例。ここは何が起こったか、どうすべきだったか、教訓として何が得られたかの三つに分けて、簡潔に書かれている。データ分析歴の少ないデータサイエンティストの話なので、事例のレベルはあまり高くない。大部分はデータ分析の話と言うよりも、プロジェクトマネジメントやファシリテーション、またスライド資料作成の話。例えばスケジュール、品質、スコープ、予算のバランスを取る話(p.100)は、完全にプロジェクトマネジメント。またセル結合などがされていて、そのままでは読めないエクセルファイルの話(p.105-109)とかレベルの低い話もある。ファシリテーションの話は、分析ヒヤリングを円滑に進める、など。ミーティングに先んじて、また冒頭でその目的とゴールを明示するのは基本だろう。ヒアリングは目的、影響、便益に分けられていて、影響を述べるのは(否定的影響の明示はやや脅迫めいているとはいえ)やや面白い視点(p.42-46)。

データ分析の失敗例と言えば、回帰分析における正規化、多重線形性の話など(p.128-137)で、むしろ本の題名から私が期待していたのはこちらの方。Googleの機械学習プラクティス(Martin Zinkevich, "Rules of Machine Learning: Best Practices for ML Engineering"[PDF])みたいなもののずっと詳細版がないかな。

斎藤康毅『ゼロから作るDeep Learning』


ベストセラーの名に恥じない、素晴らしい一冊。深層学習の基本的原理を、pythonコードを中心に解説。数学的内容も行列の積や微積分といった初歩から、実に丁寧に説明している。けれども内容はそれなりに高度なところまでフォロー。深層学習の研究の先端から、各トピックが解説されている。

内容はパーセプトロンからニューラルネットワークへ。全結合ネットワークが主な対象で、後はCNNに一章が割かれている。非常に分かりやすく書いてあり、コードも読みやすい。本文の解説がしっかりしているので、コードを深く追う必要はあまり感じない。深層学習について最初に独習するには最適な本だろう。

単純に基礎的構造の解説には終始していなく、AdaGradやAdamなどの学習法、Batch Normalizationといった話題もある。学習法ではSGDの欠点を「関数の形状が等方的でないと、非効率な経路で探索することになる点にある」(p.169)と指摘しつつ、Adamなどの学習法の概要を説明している。また、重みの初期化について、勾配消失とアクティベーションの偏りからまとめてからXavierとHeの初期化の話をしている(p.165-186)。

一番素晴らしいのは計算グラフを使った逆伝播法の解説(p.143-156)。ここは本当によく書けていて分かりやすい。計算グラフを使うことで、例えばTensorFlowのやり方になじむ。ここまで逆伝播法を明快に解説できるのは驚き。

一点、線形関数の解説で「そもそも関数は、何かの値を入力すれば何かの値を返す「変換器」です。この変換器に何か入力したとき、出力が入力の定数倍になるような関数を線形関数と言います(数式で表すとh(x) = cx。cは定数)。」(p.51)とある。この線形の条件からは、h(x+y) = h(x) + h(y)という条件が抜けている。

井筒俊彦『意識と本質』


むしろ積極的に、意識を超えた意識、意識でない意識をも含めた形で、意識なるものを統合的に構造化しなおそうとする努力を経てはじめて新しい東洋哲学の一部としての意識論が基礎付けられるのであろう。またそこにこそ東洋的意識なるものを特に東洋的意識論として考察する意義がある、と私は思う。(p.101)

ユダヤ、イスラム、インド、中国、日本の各思想を縦横無尽に渉猟。事物の本質とそれを認識する意識、という構図に各思想を類型化して位置づける。ほぼこの著者にしか不可能な試み。その読解の成否については読む側の力が到底及ばないので不明だが、切れ味の良い文体とともにとても分かりやすい議論となっている。

日常的意識において事物を認識するときには、その事物は何らのものとして認識されている。例えば、花は花として。この「何らかのもの」に当たるものが本質と呼ばれる。志向的対象の意味。こうして、日常的には世界は本質を伴った事物に分節されて認識されている。しかしこうして分節されない世界とはどのようなものか。日常的には、花を木として認識したら、それはただの誤りである。あるいは、本質による分節ができなくなってしまえば、何らかの病気である。例えば、有名なサルトルの『嘔吐』におけるマロニエの根の話は、そうした本質を規定する以前の絶対無分節の存在に対する恐怖だ。しかし、こうした非日常的な存在に直面しても狼狽しないだけの準備が東洋哲学にはある。日常的な意識、表層意識の次元に現れる事物を、それ以前の意識、深層意識の地平において眺めることができる(p.15f)。

大乗仏教に見られる思想は、日常的に分節される事物の本質をむしろ否定するものだ。『般若経』から龍樹を経て、唯識に至る存在論のテーゼ。すべては移ろいゆくものであり、意識に映じているこの世界は仮構のもの。初めに物が本質を持っているのでなく、縁起的事態がまず経験的に成立し、意識はそこに本質を分節している(p.22)。大乗仏教の形而上学は本質を認めないが、実在をまるっきり夢幻と考えるのではなく、縁起という実在性を認める(p.24f)。

本質を否定する点では大乗仏教と同じものの、その先に移ろいゆく縁起ではなく絶対的存在に到達する、シャンカラの不二一元論のような思想もある(p.26-29)。一切の存在者に共通する絶対唯一の「本質」、形而上学的絶対有。すべての存在者はこの絶対無分節者が様々な境界線で分節されて現れたもの、というどことなくスピノザ的な考え。また、絶対無分節者からすべてを説明するのでなく、個々の事物と絶対無分節者を別個に立ててその関係を論じれば、イブン・アラビーのような思想となる(p.29-32)。

本質、ということで理解されるものは、実は以上のようなものとは別にもう一つある。それは、事物をその個物、まさにこのものとして分節する個体本質。本質とはその事物が何であるか、つまりその事物の同一性を規定するものなのだから、類概念・普遍概念によって規定される類的同一性に対して、個体本質は数的同一性を規定するものだ。中世哲学ではスコトゥスのhaecceitasとして有名な概念。著者はイスラム哲学から、普遍概念のマーヒーヤと個体本質のフウィーヤという対を取り出す(p.40-61)。

個体本質は個物を類的に規定せず、このものそのものに没入する視点をもたらす。他でもなくいまこの瞬間に、なぜこの事物が開示されているのか。著者は個体本質についての思考を詩人に見ている。リルケ、芭蕉、マラルメが論じられる(p.50-61, 74-80)。詩人以外でも、本居宣長のもののあはれが論じられる。本居は、物の本質をその類、普遍から論じる中国の宋学を「さかしら」と論難しつつ、物そのものを非概念的に直観的に把握することを説いた(p.34-38) 。

さて本書の提示する構図は、こうした本質に関する思考から、特に普遍的本質、マーヒーヤについての肯定的態度を3つに類別するものだ。個体本質、フウィーヤの話は散見されるものの、メインの論題ではない。さらには、普遍的本質に対して否定的態度を取る大乗仏教の存在論もメインではない。普遍的本質を肯定する3つのタイプは次のようなもの。第一のタイプは、普遍的本質は実在するという態度。実在するといっても日常的な意識が思うような形ではなく、事物の深層に実在するとする。日常的な表層意識を剥ぎ取った、深層意識においてこの本質は把握されると考える。宋学の「格物窮理」がこのタイプとされる。第二のタイプは、同じく深層意識において本質が把握されるとするが、それは第一のタイプのように理知的にではなく、非理知的、象徴的に、元型archtypeとして把握されるとする。イスラム神秘主義、ユダヤ教神秘主義のカバラー、易経、密教のマンダラなど。本書はこの第二タイプの論述が分量を占めている。第三のタイプは、形而上学的一般者、絶対存在としての本質を認めるものの、その直接的把握は認めず、日常的な個物から理論的・概念的に把握されるとするもの。このとき、本質はほぼ概念に転じる。儒学、特に孔子の正名論、古代インドのヴァイシェーシカ派が挙げられる(p.71-74)。西洋哲学の基本線もこの第三のタイプだろう。

第一のタイプとして広範に論じられるのは禅、とりわけ日本の禅の存在論。そしてこの部分が本書のもっとも面白いところだろう。周知の通り、禅では日常的な表層意識に映じる世界を否定する。禅の公案にあるように、ときにはあからさまに矛盾した言葉を用いて、日常的な存在理解を破壊しようとする。道元は、分節は人間がその感覚器官と言葉の文化的制約でそう分節しているだけであり、存在は本来は限りなく自由なものだと述べる(p.177f)。禅が意識による通常の本質的存在分節を否定して開く世界はカオス的だが、そこには本質ではない形での存在分節がある。その都度、分節される無分節な存在を見る(p.117-139, 391-404)。先のシャンカラの不二一元論に近いのだろうか。一つのポイントは、この無分節の覚知が理性的な理解ではないこと。意識そのものの、ある根本的な次元転換を予想する全人間的了解である(p.154f)。また禅は、無分節の存在に到達して終わるのではない。そこから日常的な意識に戻ってくる。すなわち、禅の実在体験の三段階(未悟→悟→已悟)。まず日常的な、表層意識における有本質的分節がある。ついで、日常世界を否定し去った先に無分節(純粋なノエシス)を見出す。最後に、見出された無分節者が世界を成り立たしめているという、無本質的分節(無分節者の全体顕現)の把握。悟りを経て日常世界に戻ってきた時、禅は山が「山のごとく」ある、「山に似たり」してある、と捉える(p.142-180)。

第二のタイプは、ある種の人間の深層意識に生起する元型イマージュのうちに、事物の本質の象徴的顕現を見るもの(p.180-293)。カントの構想力につながる問題領域が見えよう。ここでいう元型とは、人の深層意識領域に根源的イマージュの形で自己を開示する本質(p.213)。ユングの集団的無意識も元型的イマージュの一つだし、さらには易経での元型は八卦(p.205-213)。こうしたものは、古くシャーマニズムに見える。シャーマニズムそのものは神話創造的であって、哲学的な思想ではない。古代中国の思想においては荘子がシャーマニズムの地盤から出発し、哲学的思考へと進んだ。 さらには空海などの密教的仏教、ユダヤ神秘主義、カバラ、イスラム思想のスフラワルディー系の照明哲学などが挙げられる(p.199-201)。こうした元型は、世界を生み出す根源的な要素、意識・存在の創造的エネルギーのもっとも原初的な、第一次的な凝集点が形象的に提示されたもの(p.245)。この凝集点を、著者は「コトバ」と呼ぶ。例えば易経では八掛が様々に組み合わさったものとして、この世界は現成すると捉えられる。空海は深層意識において、存在者の分節をもたらす究極的な真なるコトバ、すなわち真言を見出す(p.229-234)。さらには著者は、ユダヤ教神秘主義のカバラーに深く入り込んでその構造を明らかにする。カバリストは、ヘブライ語の子音に、人間の言葉とは別の、神のコトバを見る。子音だけからなるヘブライ語聖書は神のコトバを記したものであり、それを読解することによって世界の秩序を知ろうとする(p.235-244)。子音のそれぞれに、想像的イマージュが割り振られる。そうした神のコトバに基づいて世界が生成していくる。むしろ、神すらコトバから生成する、すなわち神の内なる神以前の無から神が流出する。セフィーロートは流出段階の内部構造である(p.257-280)。

第三のタイプは、簡潔に論じられる。これは経験的世界の事物を規定する普遍者が実在するとし、理知的にそれを把握する。プラトンのイデア論が典型であり、また孔子の正名論、インドのヴァイシューシカ派が挙げられる(p.293-317)。孔子は永遠不易の普遍的「本質」の実在を謳う。その実在を正しく把握し、言葉を正しく使用すること。名と実を合わせ、正しい名(正名)を用いれば、社会秩序の安定ももたらされる。こうした孔子の正名論に対して、荘子の批判が対峙される。荘子によれば、世界の存在は流動的で不定であり、永遠不易の本質など認められない。著者は、孔子と荘子のこの対立は、同じレベルのものではないという。孔子は日常的な、表層意識における存在分節のレベルでの本質を見ている。表層レベルでは本質は確定しており、存在者はきちんと分節されている。荘子は深層意識における無分節のレベルから本質を論じているのだ(p.304-309)。

およそ6年半ぶりの再読だが、すっかり忘れていて新鮮な気持ちで読んだ。良いことなのか、悪いことなのか。ともあれ、今年はこの著者の本を多く読んでいくことにする。

佐伯胖、松原望編『実践としての統計学』


統計学の様々な結果やTipsの背景、基礎を述べたもの。タイトルでは内容が伝わりにくい。統計学はいまや基礎的知識として、物理学・生物学から社会科学まで広く普及している。SASやRといったツールも整備されている。その結果、数理統計学として統計学自体を研究するわけではない、使う側の統計的手法は「こういうデータの時はこう分析する」といったHow-toの蓄積となっている(p.179f)。使う側は統計の専門家ではないので、必ずしもそうしたHow-toの背景を踏まえているわけではない。こうして、数理統計学者から見れば危なっかしい統計的結果が量産されることになる。

本書はそうしたHow-toではなく、なぜそうするのか、当たり前だと思われているが一度は疑った方がよいことなどを語っている。それぞれの著者がそれぞれの観点から書いているため、論点は様々。フィッシャー/ネイマン論争、主成分分析と因子分析の違い、無作為配分の重要性、仮説検定とベイズ統計学、統計的に一貫した手法と研究的に有用な結果のトレードオフなど。普段使われている統計的手法に隠された論点を論じているので、基本的には実務家が対象。述べられるトピックに詳しくないと、問題の所在は見えない。

統計学の濫用は、心理学において次の三つにまとめられている(p.5f)。使われる手法の制限や前提を問わないブラックボックス主義、とりあえず帰無仮説検定を行う帰無仮説信仰(有意水準p<0.05信仰も含めてよいだろう)、定番の統計的手法で分析された結果だけが認められがちになるという「方法の理論への浸食」。これらは心理学に限らず、広く流布しているものだろう。だが、もちろんこうした態度は危険である。例えば、データ解析では解析手法の都合で、本当はそうでないものをそうと見なしていることが多い。分析者はこのような見なしについて罪の意識を持っていなければならない(p.79)。また、疑って別の分析をすれば本当の結果が出たかもしれないことを、とりあえずの結果で満足することも多い(p.86)。

実験群と対照群の設定における、無作為配分もまた注意すべき事例。これはむしろ科学実験の方法論に含まれるだろう。干渉変数(交絡要因)を特定して対等化法を行うような組織的配分もあるが、すべての干渉変数が特定可能なわけではない。無作為配分を行った実験であれば、t検定のような統計的検定によって、偶然による一致なのかどうかは確率的に判断することができる(p.118-132)。じっくり読み、納得するところが多い。

仮説検定の問題点からベイズ的アプローチに至る論説は、現在の時流を先んじて捉えている(本書は2000年刊)。以前はコンピューターの計算能力が低く、正規分布など典型的ないくつかのモデルしか計算できなかったのだが、計算能力が発展して複雑なモデルの計算ができるようになったので、ベイズ的アプローチは有効になってきたとしている(p.176)。ベイジアンの方が「正道」との評価も(p.166)。標本数が増えるにしたがって、頻度説では帰無仮説を採用する確率は低下するが、ベイジアンでは逆に増大するというリンドレーのパラドクスは、さわりだけ紹介されている(p.164-167)。とても面白いので詳細を探ってみたい。

片側検定と両側検定について書かれた箇所は難しいが、問題提起はよく分かる。いくつかの本を見ても、この説明は一貫していない。著者は、「両側/片側検定という手順では、a)統計学的論理の一貫性とb)有用性がうあく一致しない。統計学的論理と実際の計量分析の進め方の間でずれが起きている」(p.190)と述べている。

最後に、妙な記述を書いておく。「AならばB」と「B」から「A」を導く、いわゆる後件肯定の誤謬について述べている箇所。
「もしもAならばB」かつ「Bが真」なら、「Aは真」とする過ちは、人がよく犯すものである。例えば、「オウム真理教のシンパならば、破防法の適用に反対するはずだ」「あの人は破防法の適用に反対だ」「それならあの人はオウム真理教のシンパだ」というような場合である。これは共通点を過剰一般化したものだが、「違い」を過剰一般化する場合ある。「授業がうまく進んでいるときは、子どもたちはよく発言する」「あの授業では、子どもはほとんど発言しなかった」「じゃあ、授業は大失敗だったんだ」というような場合である。(p.101)
二つ目の授業のケースは(なぜか文言がだいぶ変わっているのでそれがポイントでないとすれば)、妥当な推論ではないだろうか。これは「AならばB」と「Bでない」から「Aでない」を導いているもので、妥当な推論(modus tollens)である。